2011年6月19日

伴読者

朝日新聞読書欄に今週もあたしの勤務先の本が紹介されていたのですが、その話題ではなく、竹田青嗣さんが哲学・思想書について書いていた記事が面白く、興味深かったです。正確な引用ではありませんが、哲学書ほど一人ではなく仲間と、出来れば読書会などを開いて読むべきだとの指摘、至極もっともだと思いました。

昨今、読書会ブームなんだそうです。老いも若きも、男性も女性も、知ってる者同士でも知らない者同士でも、ある本に興味を持って、それが縁で集まり、その本についてああでもない、こうでもないと意見を交わすなんて、本を読むことの醍醐味の一つです。

もちろん一人で好きな本を読む愉しみも否定しませんが、自分が面白いと感じたものは人に話したくなるものです。読書会はとても素敵で知的な営為だと思います。

ただ、文芸書のように、それぞれがそれぞれで愉しめばそれでよしと出来るジャンルの本ならよいですが、哲学書のように、ある決まった解釈に従って読まなければならない、あるいはある決まった解釈を見つけ出さなければならないようなジャンルの本の場合、朝日新聞の記事にも書いてありましたが、自分勝手に読んでそれでわかった気になっているのは、やはりよくないと思います。そんなジャンルの最たるものが哲学書でしょう。

あたしは、カントやヘーゲルなどのように難解ではありませんが、それでも学生時代は中国哲学を専攻していて、古典作品を演習やあるいは仲間同士の勉強会で数多く読んできました。この文章はどのように解釈すべきか、古典作品ですから何通りかの読み方が考えられますが、その他の著作や時代の制約などから絞っていけば、おのずと正しい解釈というのは見えてきます。

もちろん、時には甲論乙駁で白黒決着のつかないときもありますが、一般の小説を読んで主人公のその時の気持ちがああだ、こうだと意見を言い合うのとはわけが違います。ある程度は知識のある先達に導かれながら、哲学書を読みたいものです。マラソンなどの伴奏者ならぬ、伴読者の存在です。ただ社会人になるとなかなかそういう機械も持てませんが、カルチャー教室や社会人大学院など、一昔前に比べればずいぶんと充実してきたなと思います。

中国思想であれば、それでも現実に誰かと読書会を開かなくとも、ある程度いろいろな本を読むことによって補うことができます。昔取った杵柄と言うのでしょうか、どういう論文に当たればよいのか、何を調べればよいのか、なんとなく見当がつくものです。(←こういう過信は禁物ですが・・・・・・)

でも、他のジャンルの思想書だと、本当に勝手に読んでいるだけではダメなんでしょうね、本当は。だからこそ概説書、概論書などが必要なわけで、本来、本屋さんの哲学コーナーはそういう立場から本が並んでいないといけないはずなのですけど、そもそもそういう棚作りができるように、出版社が本を出しているのか、そこが問題です。

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