2011年6月19日

おばちゃん

集英社新書の『「オバサン」はなぜ嫌われるか』を読み終わりました。この手の本を読むと、得てして一方的な糾弾調の書きぶりに閉口してしまうことがあります。確かに理不尽な男女差別やそれを差別とも思わないで来たこれまでの日本社会を是とするつもりはありません。ただ、そうなったのには歴史的にそれなりの合理性があったわけではないかと思うのです。

「そんなのは男性側の一方的な理屈だ」と言われるのでしょうけど、歴史的に大昔は男性しか存在せず、その男性オンリーの社会に後から女性が登場してきたというのであれば、これまでの習慣とか慣行が「男性の都合だけしか考えない」という物言いも理解できますが、そんなことはなく。人類は生まれたときから男性と女性がいたわけです。それなのに男性中心の慣行がまかり通ってきたというのには、やはりそこには女性にも都合のよい部分があったと思えるのです。

とまあ、そういうことを言い出すと、必ず目くじら立ててくってかかってくる人がいて議論にも何もならないので、このへんで打ち切りますが、そういう意味で本書は、そういう糾弾口調もなく、著者自身が一歩下がって冷静に状況を語ってくれている感じがとても好感を持てます。だからこそ、余計に著者の言うことに納得してしまうのでもありますが。

たとえ、どんなに男女平等を叫ぼうと、男女が異なるのは事実で、その線引きがやはり難しいと言いますか、もう少し時間がかかってようやくうまい具合に中和されるのではないかな、という気がします。本書のキーにもなっている女性の生理的な特徴、特に40代後半で子供を生物学的に産めなくなるという事実は(とりあえず今後の医学技術の進歩は除いて)、どんなに女性の社会寝室が進んでもなんら変更されない生物学的特徴のままなわけですから、男性中心社会の理解を得るのには時間がかかりそうです。なにせ長い人類の歴史上、女性が男性のように社会を動かすような立場に立ち始めたのはつい最近のことですから。

それにしても、本書の取り上げられている事例には、つい数十年前、いや十数年前まで、そんな男女差別が残っていたのかと思うようなものが散見され、自分の意識の低さを、知識のなさを思い知らされました。

さてさて、本書ではもう一つ、「おばさん」にはまだ親しみがあるけれど、「オバサン」は蔑称である、という話題が出てきます。そして、中高年の女性一般を指し、気軽に使える、もちろん蔑称ではない呼び方を発明できないだろうかと訴えています。いまさら「おばさん」から蔑称を抜くなんて、当の女性たちが「オバサン」忌避している以上、望むべくもないですから、何かよい呼称を考えたいものです。

で、その「おばさん」。「おばはん」なら親しみがあるのか、あるいは「おばちゃん」か、これも人や地域によって受け取り方が異なるようですが、あたしはこのくだりを読んでいて、高校時代を思い出しました。そう、あたしが高校時代に好きだった女の子は、クラスの女子から「おばちゃん」と呼ばれていたのです。男子からではありません。男子からは「某某さん」と呼ばれていて、特にあだ名も愛称もありませんでした。女子からだけです。

別にこの呼び方でクラスの女子がその子をバカにしているという風はありませんでした。もちろん、そういう悪意をもって呼んでいた女子がいなかったのかどうか、それはわかりません。ただ、その子はクラス内で浮いてるわけでもなければ、嫌われているわけでもなく、「おばちゃん」と呼ばれるくらいですから無視されていたわけでもありません。

あたしは、その子に「なんでおばちゃんって呼ばれてるの?」と聞いたことがあるのですが、「おばさん臭いからだって」と、ちょっとムッとした感じをにじませつつ、そう教えてくれました。もしかすると、彼女も内心はちょっと嫌がっていたのかな、とそう思いました。もちろん、絶対そんな呼び方はしないで、と言い出すような子ではありませんでした。

確かに、キャッキャ騒ぐような、いわゆるジョシコーセーではないですし、当時は「渋谷のギャル」的な言葉もカテゴリーもない時代でしたけど、おとなしめの、クラスでもそれほど目立つ存在ではなかったかも知れません。そこがまたあたしは大好きだったわけですけど。

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