2011年5月18日

ネタバレOK

光文社新書の『ニッポンの書評』読了。



本文でも何回が触れているのと、巻末の対談でも触れているのですが、書評の字数のこと。

ある一定の字数制限を課すというのは文章鍛錬には必要なことで、あたしも受験生の頃、しばしば国語の問題で「作者が言わんとすることを30字以上40字以内で記せ」的な問題を解かされました。先生曰く、決められた字数でまとめる力も必要だと。受験生ですからそれと同時に、決まった時間内で問題を解く能力も必要だとも言われました。いずれにせよ「自由に」というのは却って不自由なものです。

その字数について、今どきの読者は長い文章を読まない、読めないということで、短い書評が好まれるようです。たぶん、あまり新聞を読まない人には現在の新聞書評、その最も短いパターンのものでも長いと感じるのでしょうね。

と、そんなくだりを読んでいてはたと気づいたのが、だから書店員のコメントが受けるのか、ということ。つまり、最近は文芸書など発売と同時に書店員のコメントが帯に載っていることがありますし、展示用ポスターとか新聞広告などでも書店員のコメントが載っていることが多いです。これらって、たぶん読者からすれば「書評」なんですよね。で、読者に必要としているのは「評」の部分ではなく、簡単な内容紹介、特に「面白いよ」「感動するよ」といった、ある種の保証なのではないかと思うのです。

そこそこ信頼できそうな人が太鼓判を押してくれている、じゃあ読んでみるか、ということです。ですから筑摩の松田さんが褒めるより、優香が褒める方が書店での売り上げに結びつくわけですよね(爆)。

さてさて、本書を読んで、あたしが著者の感覚とは一番異なると感じる点は、ネタバレについてです。

結論から書きますと、あたし、ネタバレされても全く何とも思わないんです。ネタバレを禁じ手、それだけはやってはいけないかのように言う人もいますが、そんなことない人もいるということを、まずは主張したいです。本書巻末の対談で、ネタバレが「読まずに済ます」ためのツールになっているという話が出てきますが、もちろんそういう面もあるかも知れませんが、あたしの場合、純粋にネタバレを何とも思わないのです。

推理もの、それほど読みませんが、読む前に犯人を教えられても何の痛痒も感じません。その他の一般作品でも、主人公がどうなってしまうのか、この二人の運命はどうなるのか、そういうことを事前にばらされても何とも思いません。ですから、あたしは人から「ばらされる」という感覚ではなく、「教えてもらう」という感じになります。

さらに極端な話、あたしはスポーツの試合結果がわかってしまっても何も感じません。時にテレビ中継は録画で、ネットの2ちゃんなどを見れば、すでに試合結果がわかってしまうこともありますが、あたしは別にそれを知っても何も感じません。むしろ試合結果を確認してから安心して中継を見ることすらあります(特に贔屓チームが勝っている場合など)。

でも、こういう自分が特殊だとは思いません。だって、あたしん家では母親もそうですから。母親も最初にネタ晴らしされても何とも感じない人間です。ですから、わが家では「ネタばらし」という否定的な単語は存在しないのです。ただし、こういう家庭に育ってしまうと、外でも平気で人前でネタ晴らしを言ってしまうことがよくあります。当然相手は烈火の如くとは言わないまでも怒ります。でも、あたしにとっては結末をあらかじめシルのが「常識」なので、相手が怒る理由が理解できません。

こういう人も、意外と多いのではないか、だから、あまりネタバレが悪のように書かないで欲しいなあとも思います。

読んだ感想を書く