2011年5月31日

成長なんてできませんよ

一緒にいると愉しいとか、笑顔でいられるとか、幸せを感じるとか、人付き合いの醍醐味というのはそういうところにあるのかもしれません。この人といると視野や世界観が広がるとか、考え方が多面的になるとか、成長できるといった要素は好感を持ってもらえるかなり重要な要素なのではないかと思います。

が、そういう点であたしは人に何かを与えられるようなことはなく、あえて言うなら「不快感」くらいしか与えていないのではないか、そんな気がします。ですので、こんなお題はやはり気になります。

「この人といると成長できそう!」と感じさせる男性の特徴8パターン

そもそも「あたしといる」ような存在がいませんので・・・・・・(汗)

【1】目標に向かって地道な努力を重ねている。
そもそも目標がないです。

【2】自分が知らないことを知っている。
あたしの知識なんてたかがしれてますから。

【3】自分のいいところをよく見ていて、しっかりほめてくれる。
他人を褒めるのは苦手です。悪いところばかりが目についちゃうし。

【4】いろいろな価値観・考え方を教えてくれる。
そんなに視野が広くはないです。

【5】自分の悪いところを遠慮せずにはっきり言ってくれる。
悪いところではなく、言われたくないことを言ってしまいそうです。

【6】ブレない自分を持っている。
自分なんて持ってないです。

【7】どんなに辛いときでも、前向きな姿勢を忘れない。
常にネガティブですね。

【8】困ったことを相談したとき、親身になって一緒に考えてくれる。
人の相談に乗れるタイプではないです。

やはり、思った通りの結果になってしまったようです(汗)。

ハンチョウの絶望

昨晩放映していたTBS系のドラマ「ハンチョウ」は、割と好きでよく見ています。奥貫薫ちゃんが出なくなったのは、返す返すも残念なんですが、既に第4シリーズですか、もう奥貫さんの復活は諦めます。

さて昨晩のお話、下流社会と言いますか、フリーターと言いますか、ホームレスと言いますか、そういった底辺で苦しんでいる(←底辺という言い方も、よくよく考えると失礼な表現ですね)人がテーマでした。たぶん、視聴者的には「すばらしいセリフだ」と反応しなければならないのでしょうけど、あたしってやはり天の邪鬼なのでしょうか、素直にそうは思えません。

具体的には、フリーターの青年が将来の見通しを悲観するシーン。その青年を励ます、同じくリストラされたフリーターのモト冬樹が、いまがどん底なら明日はそれよりはちょっとはよくなる、明後日は更に明日よりよくなる、そうやって少しずつよくなっていけばいつか日の目を見るときが来る、そういって元気づけます。

あたし、ここに納得いきません。

モト冬樹など、ある程度の歳の人なら、もう少し頑張れば年金がもらえるようになるでしょうし、年齢による公的な支援というのもあると思います。(←年金払っていないとダメかしら?) とにかく役所の窓口などで相談することも可能でしょう。でも、青年の場合、意外と世間は冷たいものです。「まだ若いんだから可能性があるだろう」ということで、自助努力に任される割合が高いと思われます。たぶん、少しずつよくなっていっても、日の目を見る日は来るのだろうか、もし来たとしてもその時自分はもう年寄りになっているんじゃないか、そんなふうに考えると、若者の方がよっぽど絶望感が大きいと思います。

若いからこそ、まだまだこの先の苦しい歳月が長く残っているわけで、若いと言われるのは何の慰めにもならないのではないか、そう思ってしまうのです。第一、本当に今がどん底なのでしょうか? 明日はもっと悪くなるかもしれない、今のフリーターや正社員になれなかった人の絶望感って、そのくらい深いものではないのでしょうか?

それにしても、フリーターなのにちゃんとカワイイ彼女がいるなんて、羨ましい限りです。やはり世の中って不公平に出来ているんだな、と思います。

2011年5月30日

官製ではなく官制

集英社新書『モノ言う中国人』読了。

こういった中国モノ、いま現在の中国を題材とした本って、「まえがき」とか「あとがき」で、ほとんどの著者が、最近の中国本は盲目的に中国を賛美したり、あるいは逆に中国を悲観的描いたりと両極端で、どちらも真実の中国を描き切れていない、と書いています。そして、そういう著者なりの不満を解消し、真実の中国を日本人に知らしめようという思いから書かれたものがほとんどで、本書もその一つです。

しかし、これだけよくもまあいろいろな人が、お互いに中国の真実の姿をとらえていないと言い合えるものですね。不思議です。逆に言えば、これだけ本が出ているのに、日本人一般にはあまり伝わっていないということなのでしょうか? だとしたら、その原因はどこにあるのでしょう? これだけ次から次へと、実のところ内容的には大差のない中国モノが出版されているのに、日本人の中国認識があまり変わらない原因を分析した本の方が必要かも知れません。

さてさて、本書です。

著者は中国で大使館勤務だったようです。本書では知識人や知的エリートではなく、もっとごくフツーの中国人がインターネットという武器を手にすることによって、政治や社会のあり方に口を挟むようになってきた、意見表明するようになってきたということを紹介しています。ネットに表われた状況の分析としてはそれでよいのかも知れませんが、本書を読んでいる限り、著者が、そのフツーの中国人の中に分け入ってインタビューしたり、取材をしているような感じは受けません。もちろんネットの匿名性がありますから、本当に書き込んだ人に逢えるとは限りませんが、それでも、もう少し取材、足で稼いだものが欲しかったです。

さて、本書を読みながら感じたのは、著者が書いているように反日デモに代表されるような中国民衆の示威行動が「官製」ではない、ということに関してはあたしも賛成ですし、そう思います。ただ、政府や党中央などがやらせているのではないけれど、必要なところはしっかりコントロールしているという意味で「官制」だとは思っています。そして、そのコントロールできている部分が徐々に少なくなっている、なかなか言うことをきかなくなっている、とも思っています。

国有企業と国営企業の違いではないですが、例えば中国のデモ一つとっても、日本で「上がやらせているんだ」と言ったときに、それが「官製」というニュアンスなのか、「官制」という意味なのか、新聞や週刊誌も神経を使って書いて欲しいものだと思います。

2011年5月29日

冤罪

布川事件の再審で無罪が確定したというニュース。この十年くらい、冤罪で逆転無罪というニュースが目につく気がします。

警察や検察のあまりにも杜撰な捜査や裁判過程は当然糾弾されるべきでしょうし、この間、人生の大切な一時期を奪われた元容疑者(←こういう表現が正しいのかどうかわかりませんが、とりあえず)への保証、賠償も考えないとならないのではないでしょうか? もちろん本人だけでなく、その家族も筆舌に尽くしがたい苦労をしたと思いますので、そういったところもケアしてあげないと、ただ単に「無罪だ!」「冤罪だった」と言っても、なんの慰めにもならないのではないでしょうか?

さて、この手のニュースが目につくと書きましたが、こういうニュースを聞くにつけ、もちろん「罪を犯してもいないのに犯人扱いされてかわいそうだな」と思う反面、本当にこの人は犯人ではないのだろうか、という思いもあります。

確たる証拠がなければ無罪とするという法律上の解釈は理解しております。疑わしき派罰せずという言葉も知っています。でも、「冤罪だった」「晴れて無罪を勝ち取った」と喜んでいる人たちの一方で、「では、あたしの家族を殺した真犯人はどこにいるの?」という思いを抱いている被害者家族もいるわけですよね?

犯罪があった以上、必ずどこかに犯人はいるはずで、そりゃ数十年前の事件ですから、いまさら調べても何も出てこないかも知れませんが、やはり「真犯人はどこにいる? 誰なんだ?」という思いがわき起こってきます。

それと、証拠はないものの、そして強引な取り調べはもってのほかですが、その人が犯人だと思った警察側には、いわゆる刑事の長年の勘というものがあったと思います。それって、裁判では何の証拠能力もないでしょうけど、でも、もしそんな「勘」と呼ばれるものがあるとすれば、それなりに信頼できるのではないだろうか、とも思ってしまうのです。

冤罪だったと喜んでいる仮面の裏で、「しめしめ、これで晴れて無罪、完全犯罪成立だ」とほくそ笑んでいる、そんなことってないのでしょうか? 可能性として、今回冤罪だったということになった二人、法律的には無罪なんでしょうけど、事実としてこの二人が犯人であるという可能性が全くゼロというわけではないんです、よね? だって、いまだに捕まっていない真犯人がどこかにいるわけですから。もちろん、きちんと調べたら、この二人にはアリバイがあって犯行は不可能だった、というのであれば話は別ですが・・・・・・

とにかく冤罪のニュースを聞くたびに、真犯人の行方が気になって仕方のないあたしです。

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