あたしなら行きます
テレビはどこを回しても、似たような被災地の様子とか、避難所での苦労話とか、福島の原発の状況とか・・・・・・
そろそろ飽きてきたという声も聞かれますが、ちょっとした心温まる話などは、各局がいろいろ取材をして拾ってきたんだなあと思われたりします。ただ、見ていると、必要以上に美談とか、感動物語に演出しているような気がしてしまい、却って興醒めです。
そんな中、やはり比較的素直に見られるのは子供の話です。
ある避難所の女の子が、クラスの仲良しと離ればなれになってしまって寂しい、と言っていたのが印象に残りました。別に、「ああ、かわいそうに。早くお友達に逢いたいだろうねえ」という思いを抱いたわけではありません。
むしろ、あたしが印象に残ったのは、「友達に逢いたい」という台詞をその子が言ったことです。小学生だろうが高校生だろうが、クラスメートに逢えなくて寂しい、早く家に戻り学校に行って友達と逢いたいという感情は、普通に考えれば当たり前の気持ちなのでしょう。
でも、あたしみたいに、子供の頃はクラスで嫌われていて、仲の良い友達などいなかった者には、その感情やこういう台詞は理解できません。それよりも、イヤなクラスメートに逢わなくてすむ、と思って避難所生活を謳歌しているかも知れません。もしかすると、クラスでイジメを受けていて、今回クラスメートと離れて避難所生活を送ることになり、イジメから逃れられてホッとしている子も、被災者の中にはいるのではないでしょうか?
こういうニュースを見ていても、あたしはそういうことを考えてしまいます。
また東京の街頭でのインタビューで、地元が東北なので親や親戚、古くからの友人の安否が心配だという声も聞かれます。で、ふと思ったのです。あたしは巣鴨の生まれです。東京は豊島区にある、おばあちゃんの原宿で有名な、あの巣鴨です。そして、小学校に上がるときに、巣鴨から杉並区の高井戸に引っ越し、そこに大学4年まで住んでいました。
そんなあたしの場合、もし、巣鴨とか高井戸が甚大な被害を被るような災害が起こった場合、心配するでしょうか? と考えてみたのです。どちらにも心配するような知り合いは、もう住んでいません。いや、探せば知り合いの何人かはいるかも知れませんが、既につきあいがなくなってかなりの時間が流れています。そもそも、つきあいなんて言えるような関係がなかったわけですし、少なくとも心配するような間柄の人は、いくら考えてもいません。
たぶん、あたしは全く心配しないんだろうなあと思います。
相変わらず、冷たい人間かも知れません。
だからというわけではありませんが、もしあたしが原子力関係の技能を持っていたら、言われれば文句も言わず福島の現場に向かいます。ニュースでは生命の危険もあり、なかなか人員確保が出来ないということですが、あたしなら進んで行きます。志願してまで行くかと言われるとわかりませんが、少なくとも上司から「言ってくれないか」と言われれば、「はい、わかりました」と答えるでしょう。
なぜなら、あたしの場合、後に残す家族がいません。いまは母と同居していますが、妹夫婦もいますから、あたしがいなくても大丈夫でしょう。少なくとも、あたしには守るべき配偶者や子供がいませんから、なんと言っても身軽です。
それに、必ずしも生命の危機にさらされるわけではないでしょう。いや、さらされるのか。でも、行ったから必ず死ぬというほど危険な場でもないでしょう。そんなに躊躇するような理由はないと思うのです。
第一、あたしの場合、あたしが死んだからといって悲しむ人は、せいぜい上に挙げた母と妹くらいですから、未練も何もありません。死んでも誰からも悲しまれないのが理想なので、行けと言われれば行きます。どうやら、高いお給料ももらえるみたいですし・・・・・・
そろそろ飽きてきたという声も聞かれますが、ちょっとした心温まる話などは、各局がいろいろ取材をして拾ってきたんだなあと思われたりします。ただ、見ていると、必要以上に美談とか、感動物語に演出しているような気がしてしまい、却って興醒めです。
そんな中、やはり比較的素直に見られるのは子供の話です。
ある避難所の女の子が、クラスの仲良しと離ればなれになってしまって寂しい、と言っていたのが印象に残りました。別に、「ああ、かわいそうに。早くお友達に逢いたいだろうねえ」という思いを抱いたわけではありません。
むしろ、あたしが印象に残ったのは、「友達に逢いたい」という台詞をその子が言ったことです。小学生だろうが高校生だろうが、クラスメートに逢えなくて寂しい、早く家に戻り学校に行って友達と逢いたいという感情は、普通に考えれば当たり前の気持ちなのでしょう。
でも、あたしみたいに、子供の頃はクラスで嫌われていて、仲の良い友達などいなかった者には、その感情やこういう台詞は理解できません。それよりも、イヤなクラスメートに逢わなくてすむ、と思って避難所生活を謳歌しているかも知れません。もしかすると、クラスでイジメを受けていて、今回クラスメートと離れて避難所生活を送ることになり、イジメから逃れられてホッとしている子も、被災者の中にはいるのではないでしょうか?
こういうニュースを見ていても、あたしはそういうことを考えてしまいます。
また東京の街頭でのインタビューで、地元が東北なので親や親戚、古くからの友人の安否が心配だという声も聞かれます。で、ふと思ったのです。あたしは巣鴨の生まれです。東京は豊島区にある、おばあちゃんの原宿で有名な、あの巣鴨です。そして、小学校に上がるときに、巣鴨から杉並区の高井戸に引っ越し、そこに大学4年まで住んでいました。
そんなあたしの場合、もし、巣鴨とか高井戸が甚大な被害を被るような災害が起こった場合、心配するでしょうか? と考えてみたのです。どちらにも心配するような知り合いは、もう住んでいません。いや、探せば知り合いの何人かはいるかも知れませんが、既につきあいがなくなってかなりの時間が流れています。そもそも、つきあいなんて言えるような関係がなかったわけですし、少なくとも心配するような間柄の人は、いくら考えてもいません。
たぶん、あたしは全く心配しないんだろうなあと思います。
相変わらず、冷たい人間かも知れません。
だからというわけではありませんが、もしあたしが原子力関係の技能を持っていたら、言われれば文句も言わず福島の現場に向かいます。ニュースでは生命の危険もあり、なかなか人員確保が出来ないということですが、あたしなら進んで行きます。志願してまで行くかと言われるとわかりませんが、少なくとも上司から「言ってくれないか」と言われれば、「はい、わかりました」と答えるでしょう。
なぜなら、あたしの場合、後に残す家族がいません。いまは母と同居していますが、妹夫婦もいますから、あたしがいなくても大丈夫でしょう。少なくとも、あたしには守るべき配偶者や子供がいませんから、なんと言っても身軽です。
それに、必ずしも生命の危機にさらされるわけではないでしょう。いや、さらされるのか。でも、行ったから必ず死ぬというほど危険な場でもないでしょう。そんなに躊躇するような理由はないと思うのです。
第一、あたしの場合、あたしが死んだからといって悲しむ人は、せいぜい上に挙げた母と妹くらいですから、未練も何もありません。死んでも誰からも悲しまれないのが理想なので、行けと言われれば行きます。どうやら、高いお給料ももらえるみたいですし・・・・・・
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