2011年3月24日

こんどは水か・・・・・・

この数日、というか一両日、東京でも、それほど大きくはないのですが、また余震が増えているような気がします。いやな感じです。

さてさて、「水」といっても水商売ではありません。生命維持にとっても最も大切と言ってよい「水」の問題です。東京の水は大丈夫か(?)という感じになってきました。

幸い、あたしの住んでいる地区は今回の注意(警告?)の対象地域ではないので問題はないですが、それでも近所のスーパーからペットボトルの水が消えました。確かに、金町浄水場が汚染されているのに、あたしらのところの浄水場大丈夫なんてあり得ないだろうという市民心理なのでしょう。でも、あまり大袈裟に騒ぐのは、やはりよくないでしょう。

あれは、都知事・石原の失態ですね。

確かに危機管理とか、緊急時のリーダーシップとして理解できなくもないですが、今回くらいの数値であれば上水道の担当責任者が会見をするだけでよかったはずです。それは都知事みずからがしゃしゃり出てきて言い出すから、余計に騒ぎが大きくなってしまったのだと思います。ああいうのをスタンドプレイと呼ぶのでしょう。

それにしても芸能人という、このところ多くの人がブログやツィッターで震災に対する気持ちを述べていますが、そういうのを読むたびに、あたしは自分がどれほど冷たい人間なのだろうと実感します。自分が被災していないから、家族にも被害が出ていないから、家族が被災者になっていないからかもしれませんが、心の底では被災者の気持ちに全く寄り添っていないのです。

いや、みんな口では励まし合うとか、心を一つになんて言っているけど、本当に心の底から思っているかは疑わしいよ、という意見もあるかもしれません。この状況下で他人の気持ちを忖度するのはやめておきますが、少なくとも自信を持って把握できる自分の感情について言えば、なんて悲しんでいないのだろう、どうしてこんなにもお悔やみの気持ちがわき上がらないのだろう、なぜに心を一つにしようという感情がわいてこないのだろう、と思えるのです。

ふだんから、「所詮、他人の気持ちなんて理解できないのさ」と考える癖がついてしまっているからなのでしょうか? もちろん、被災者の不幸や苦労を嘲笑う気持ちなんてありませんし、石原のように天罰だと思っているわけでもありません。そこまで底意地は悪くないつもりです。

ただ、こういう負の、マイナスの感情こそないものの、上に書いたようなプラスの感情もないのです。いや、「ない」なんて言うのは、あまりにも自分が冷酷に聞こえてしまいますので、「プラスの感情が感じられない」ということにさせてください。

こういう時だからなのでしょうか、たまたま読んでいた文庫クセジュの『西洋哲学史』の中にあったこんな言葉にドキッとしました。
「死」はなんでもないものである。なぜなら、死は実在を測定するものである感覚を廃棄するからだ。(p.37)
つまり、死んでしまったときには、死ぬということ、死んだということを感知することができないわけだから、死なんてものはないに等しいと言っているのでしょう。ちょっと救われる気がします。

また
ある苦がわれわれの能力を越えてしまっている場合は、いずれそれは感じられなくなっていくから、したがってひとは苦に耐えることができる。(p.37)
これも、「死」についてと同じようなことを言っているのですね。こんな風に考えれば、少しは心も慰められるでしょうか?

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