2011年2月18日

「正義」って?

「正義」を考える』読了。

たぶん、あたしの記憶に間違いがなければ大澤真幸さんの本は初めてです。内容はとても面白かったし、詠みやすかったし、なによりわかりやすかったです。現代社会をこういう風に切り取って考えてみるのか、という普段あまりやらない作業を体験できました。

ただ、冒頭、この本は角田光代さんの『八日目の蝉』、『八日目の蝉』(文庫版)を導入として話を始めています。大澤さんによれば、角田さんのこの本はとてもヒットした作品であり、それだけ多くの人の共感を得た小説だtということです。確かによく売れたし、文庫版も出て、NHKでドラマ化もされた人気作であるということはあたしもわかっています。

大澤さんは「誘拐犯であるという社会的なレッテルを剥がせば、こんなにいい母親はいない(p.25)」と書いています。でも、前にも書いたのですが、あたしはこの小説にはどうしても共感できないし、感情移入もできないのです。「誘拐犯のレッテル」を剥いで、「いい母親」が現われても、あたしにはその母親像がすぐに薄くなって、その下にやはり誘拐犯という正体が透けて見えてくるように感じられるのです。どんなに取り繕ったって、所詮は誘拐犯、犯罪者でしかない。

子供の心に傷を残したのも結局は誘拐なんかしたからであり、そもそもは自分が不倫なんかしていたのが悪いのであって、そこには何ら同情の余地はないと思います。というか、そこに同情の余地を認めていたら社会は回っていかないだろう、と思うのです。で、その誘拐されていた娘も成人しては不倫に奔る、そこに数奇な生い立ちの影響があるにせよ、そんな風に育ってしまったのはこの小説の前半の主人公である女性が誘拐などしたからであって、どんなに愛情を注ごうが、それよりも何よりも前に「あんたは犯罪を犯した」のであって、どんなに誘拐した子供を慈しんで育てても誘拐という事実は消えない、と思ってしまうのです、あたしは。

なので、この小説から話が始まって、最初のうちは大澤さんのたとうとしているスタート地点になかなか立てないまま、強引にレース(散歩? 旅?)に参加した気分でした。ただ、なんとか置いてきぼりにならず、完走は果たせたかな、という気持ちです。

読んだ感想を書く