十六夜の出逢い
今朝も皓々と月が輝いていましたが、昨夜は十六夜でしたね。帰宅途中に見上げた夜空に、神々しく輝いていました。
ところで、初めて訪れた場所で、とある喫茶店と言うのでしょうか、ちょっとした軽食程度は出しているお店に入りました。レストランと言うほどでもなければ、コーヒー専門店といった感じでもなく、窓の大きな明るい店内でした。
他に適当な飲食店がなかったのか、その店はかなり混んでいて、普段のあたしなら「一食抜いちゃえ」と入店を諦めるところですが、今日に限って、店の人に案内されるまま入ってしまいました。
店の人の後について、やや細長い店内を歩いていきましたが、やはりどのテーブルも満席でとても座れそうにありません。「おいおい、ちゃんと席があるのを確かめてから案内してよね」と心の中で思いつつついていくと、ふいに店員が「こちら、相席になりますが......」と言って指し示しました。見ると、向かい合わせの二人がけのテーブルが、微妙に二つくっつけられて四人席になっているテーブルでした。そして、その四人席には既に三名の女性が座っていました。
注文したものがまだ運ばれてきていないのか、三人ともケータイをいじくったり雑誌を広げたりと思い思いにしていて、どうも三人連れではなく、それぞれが一人で来店し、この席に相席させられているようでした。年の頃は二十代後半から三十代前半、OLといった感じでしょうか。ただ三人とも制服めいたものを着ているわけではないので、一人は女子大生といっても通じそうな感じでした。
三人がそれぞれ別々に来ていて、特に知り合いでもなんでもないようだとはいえ、この席にあたしなんかが混ざるのはどう見たって違和感がある、異分子混入といった気がしましたが、店員がそこを指示するわけですから仕方ありません。「すみません」とは声には出さず態度だけで示しながら着席しました。
メニューを見るまでもなく、こういう店ですから選ぶとしたらピラフかカレーライスかハヤシライスくらいです。でも、間が持たないのでなんとなくメニューを眺めていたところ、あたしの向かいに座る女の子、否、女性と言わないといけませんね、でも女の子という言い方の方がしっくりくるのですが、とにかくその人が突然苦しそうにゼーゼー言いだし、バッグから吸引器のようなものを取り出して口にあてがっていました。(吸引器でよいのでしょうか? それとも吸入器ですか? よくわからないので以下は吸引器で通させていただきます。)
どうやら喘息を患っている人のようです。吸引器で数回シュパシュパとやったら落ち着いたらしく、お騒がせしてすみませんという表情で同じテーブルの三人に軽く頭を下げました。その彼女がバッグにしまおうとして手から転げ落ちた吸引器がパンダの図柄の吸引器だったのが目を引きました。こんな吸引器があるのか、それともただの吸引器をパンダ柄のケースに入れているのか、あたしにはわかりませんでしたが、喘息の発作の苦しさを少しでも和らげようという彼女なりの心遣いなのでしょう。ちょっと心が和みました。
が、テーブルの他の二人の女性はあたしとは異なった感想を抱いたようです。彼女を凝視するような二人の視線を感じたあたしが見ると、その二人がほとんど同時に「あなたも?」と声を発したのです。そして、おもむろにバッグから吸引器を取り出し、てのひらに乗せて見せたのです。四人で囲んでいるテーブルのうちの三人が喘息持ちとはなんという偶然でしょう。もちろん、手を広げている二人の吸引器はパンダ柄ではなく、ごくごく普通の吸引器で、ちょっとだけ形が異なっているものです。
パンダ柄の女性が二人にちょっと微笑んで、自分もてのひらに改めてパンダを乗せて二人に見せました。三人の女性が喫茶店のテーブルの上で、吸引器を乗せた手を広げて見せ合っているなんて、はたから見たら、ちょっと異様な光景かもしれませんが、その時のあたしは呆気にとられつつも心温まるものを感じました。
そして、その三人の女性がこんどは微笑みながら、「あなたもそうなんですか?」という視線と表情をあたしに向けてきました。
両親の話によると、幼稚園くらいまでのあたしは、ちょっと喘息気味で、当時は東京は豊島区の巣鴨に住んでいたのですが、もう少し空気のきれいな郊外に越した方がよいと医者に言われたらしく、あたしが小学校に上がるタイミングで、父の勤務先の社宅があった杉並区高井戸に引っ越しました。
よくよく考えますと、引っ越し先の高井戸は環状八号線のすぐ近くで、当時住んでいた豊島区とどちらの方が空気がきれいだったのか怪しいところです。ただ、豊島区よりははるかに周りに緑の多い環境であることは間違いなかったです。でも、当のあたしには喘息という自覚もなく、かなり後になって小さいころお前は喘息だったと聞かされるまで全く自覚したことがなかったほどの健康体でした。このときの引っ越しも、あたしの小学校入学、それにすぐ下に妹がいたので豊島区のアパートでは手狭だから、もう少し広いところに引っ越したものだとばかり思っていました。(実際のところ、引っ越しの理由の八割方はそれでしょう。)
という、自覚はないけれどもそういう幼児体験があったあたしですが、もちろん現在は喘息なんてありませんし吸引器も持っていません。「マズイ、これでは彼女たちの期待にこたえられないぞ」と、内心焦りました。いや、自分は健康なんだから焦る必要なんてこれっぽっちもないのですが、その場の状況ではあたしも喘息持ちで吸引器を携帯していないと、そのテーブルに座っていてはいけないような雰囲気でした。
「す、すみません......」と、なんで謝らないといけないんだろうと思いつつ、あたしは切り出しました。「あたしは喘息ではないんです」と告げると、彼女たち表情にはがっかりした様子が浮かびました。心の底からマズイと思ったあたしは、「で、でも、ちょっとアレルギー性の鼻炎で、点鼻薬はいつも持ち歩いていますよ」と、カバンから自分の点鼻薬を取り出して彼女たちに示しました。これで納得してくれなかったら、もう食事なんかやめて、この席を立たないといけない、と覚悟を決め、彼女たちの顔を見回しました。
「みんな、一緒だね」
パンダの彼女がやさしく声をかけてくれました。一気に場が和んだのは言うまでもありません。お互いこのお店のこの席で、今日初めて顔を合わせた四人です。でも、そんなささやかな共通点がお互いの心の距離を一気に縮めてくれたのです。
こんなことってドラマの中だけかと思っていましたけど、こういう出逢いのきっかけというのもあるものだと、正直驚きました。そして、なんとなんと、これまでのあたしにはあるまじきことですが、初めて逢った人と、その場でメアドの交換をしたのです。こんなこと絶対にありえません。
今年は、何かが動き出しそうな予感がします。
ところで、初めて訪れた場所で、とある喫茶店と言うのでしょうか、ちょっとした軽食程度は出しているお店に入りました。レストランと言うほどでもなければ、コーヒー専門店といった感じでもなく、窓の大きな明るい店内でした。
他に適当な飲食店がなかったのか、その店はかなり混んでいて、普段のあたしなら「一食抜いちゃえ」と入店を諦めるところですが、今日に限って、店の人に案内されるまま入ってしまいました。
店の人の後について、やや細長い店内を歩いていきましたが、やはりどのテーブルも満席でとても座れそうにありません。「おいおい、ちゃんと席があるのを確かめてから案内してよね」と心の中で思いつつついていくと、ふいに店員が「こちら、相席になりますが......」と言って指し示しました。見ると、向かい合わせの二人がけのテーブルが、微妙に二つくっつけられて四人席になっているテーブルでした。そして、その四人席には既に三名の女性が座っていました。
注文したものがまだ運ばれてきていないのか、三人ともケータイをいじくったり雑誌を広げたりと思い思いにしていて、どうも三人連れではなく、それぞれが一人で来店し、この席に相席させられているようでした。年の頃は二十代後半から三十代前半、OLといった感じでしょうか。ただ三人とも制服めいたものを着ているわけではないので、一人は女子大生といっても通じそうな感じでした。
三人がそれぞれ別々に来ていて、特に知り合いでもなんでもないようだとはいえ、この席にあたしなんかが混ざるのはどう見たって違和感がある、異分子混入といった気がしましたが、店員がそこを指示するわけですから仕方ありません。「すみません」とは声には出さず態度だけで示しながら着席しました。
メニューを見るまでもなく、こういう店ですから選ぶとしたらピラフかカレーライスかハヤシライスくらいです。でも、間が持たないのでなんとなくメニューを眺めていたところ、あたしの向かいに座る女の子、否、女性と言わないといけませんね、でも女の子という言い方の方がしっくりくるのですが、とにかくその人が突然苦しそうにゼーゼー言いだし、バッグから吸引器のようなものを取り出して口にあてがっていました。(吸引器でよいのでしょうか? それとも吸入器ですか? よくわからないので以下は吸引器で通させていただきます。)
どうやら喘息を患っている人のようです。吸引器で数回シュパシュパとやったら落ち着いたらしく、お騒がせしてすみませんという表情で同じテーブルの三人に軽く頭を下げました。その彼女がバッグにしまおうとして手から転げ落ちた吸引器がパンダの図柄の吸引器だったのが目を引きました。こんな吸引器があるのか、それともただの吸引器をパンダ柄のケースに入れているのか、あたしにはわかりませんでしたが、喘息の発作の苦しさを少しでも和らげようという彼女なりの心遣いなのでしょう。ちょっと心が和みました。
が、テーブルの他の二人の女性はあたしとは異なった感想を抱いたようです。彼女を凝視するような二人の視線を感じたあたしが見ると、その二人がほとんど同時に「あなたも?」と声を発したのです。そして、おもむろにバッグから吸引器を取り出し、てのひらに乗せて見せたのです。四人で囲んでいるテーブルのうちの三人が喘息持ちとはなんという偶然でしょう。もちろん、手を広げている二人の吸引器はパンダ柄ではなく、ごくごく普通の吸引器で、ちょっとだけ形が異なっているものです。
パンダ柄の女性が二人にちょっと微笑んで、自分もてのひらに改めてパンダを乗せて二人に見せました。三人の女性が喫茶店のテーブルの上で、吸引器を乗せた手を広げて見せ合っているなんて、はたから見たら、ちょっと異様な光景かもしれませんが、その時のあたしは呆気にとられつつも心温まるものを感じました。
そして、その三人の女性がこんどは微笑みながら、「あなたもそうなんですか?」という視線と表情をあたしに向けてきました。
両親の話によると、幼稚園くらいまでのあたしは、ちょっと喘息気味で、当時は東京は豊島区の巣鴨に住んでいたのですが、もう少し空気のきれいな郊外に越した方がよいと医者に言われたらしく、あたしが小学校に上がるタイミングで、父の勤務先の社宅があった杉並区高井戸に引っ越しました。
よくよく考えますと、引っ越し先の高井戸は環状八号線のすぐ近くで、当時住んでいた豊島区とどちらの方が空気がきれいだったのか怪しいところです。ただ、豊島区よりははるかに周りに緑の多い環境であることは間違いなかったです。でも、当のあたしには喘息という自覚もなく、かなり後になって小さいころお前は喘息だったと聞かされるまで全く自覚したことがなかったほどの健康体でした。このときの引っ越しも、あたしの小学校入学、それにすぐ下に妹がいたので豊島区のアパートでは手狭だから、もう少し広いところに引っ越したものだとばかり思っていました。(実際のところ、引っ越しの理由の八割方はそれでしょう。)
という、自覚はないけれどもそういう幼児体験があったあたしですが、もちろん現在は喘息なんてありませんし吸引器も持っていません。「マズイ、これでは彼女たちの期待にこたえられないぞ」と、内心焦りました。いや、自分は健康なんだから焦る必要なんてこれっぽっちもないのですが、その場の状況ではあたしも喘息持ちで吸引器を携帯していないと、そのテーブルに座っていてはいけないような雰囲気でした。
「す、すみません......」と、なんで謝らないといけないんだろうと思いつつ、あたしは切り出しました。「あたしは喘息ではないんです」と告げると、彼女たち表情にはがっかりした様子が浮かびました。心の底からマズイと思ったあたしは、「で、でも、ちょっとアレルギー性の鼻炎で、点鼻薬はいつも持ち歩いていますよ」と、カバンから自分の点鼻薬を取り出して彼女たちに示しました。これで納得してくれなかったら、もう食事なんかやめて、この席を立たないといけない、と覚悟を決め、彼女たちの顔を見回しました。
「みんな、一緒だね」
パンダの彼女がやさしく声をかけてくれました。一気に場が和んだのは言うまでもありません。お互いこのお店のこの席で、今日初めて顔を合わせた四人です。でも、そんなささやかな共通点がお互いの心の距離を一気に縮めてくれたのです。
こんなことってドラマの中だけかと思っていましたけど、こういう出逢いのきっかけというのもあるものだと、正直驚きました。そして、なんとなんと、これまでのあたしにはあるまじきことですが、初めて逢った人と、その場でメアドの交換をしたのです。こんなこと絶対にありえません。
今年は、何かが動き出しそうな予感がします。
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