2011年1月12日

運動になってしまった

各地の児童施設に「伊達直人」を名乗る人物からのプレゼント・寄付が続いている件ですが、新聞などでは「タイガーマスク運動」とまで呼ばれてしまってます。誰かの置き手紙にそう書いてあったんですよね。でも、ありゃ、運動なのでしょうか?

個人的には、ああいった助け合いの聖心とかボランティアの気持ちというのは尊いものだと思いますし、これらの行動を否定するつもりも避難するつもりもありません。まだまだ日本人って捨てたもんじゃないな、と温かい気持ちにもなります。

でも、でも、あたしとしてはこういうボランティア、実は懐疑的なんです。

なんか直前に書いたことと矛盾するみたいですが、でも、昔からそう思っています。

基本的に、弱者救済というのは個人の善意に依拠するものではなく、政府や行政がやるべきだと思うのです。もちろん各地の役所が何もしていなかったというわけではないでしょうし、それぞれの養護施設なども懸命に活動をしていると思います。それでも、行き届かないところがある場合、そういった事例の解決を個人の善意に頼ってしまうのは、あたしはあまりよくないのではないかと思うのです。

阪神淡路大震災など大きな災害の時も、確かにボランティア活動は素晴らしいと思いますし、懸命に汗を流した人の努力や善意を否定するつもりはありません。でも、マスコミまでがこぞって無償の奉仕を賞賛するのは、なんか都合よくただ働きをさせているみたいで、実はあたしはあまり好きではありませんでした。

やはり、労働には対価が支払われるべきであり、もちろんそれを被災者に要求するつもりはなく、あくまで行政が支払うべきだと思います。そういう意味では、あたしは「小さい政府」よりも「大きな政府」を指向する人間なのかもしれません。

政府の手が回らないところをボランティアで、という発想は嫌いです。手が回らないところは民間で、というのであればわかります。もちろん財政的な支援は行政がやるべきだと思いますが。

昔、昔、小学生のころ、テレビの時代劇「大岡越前」を見ていて、大岡越前の手下の岡っ引きがお金が無くて心中を使用としていた親子に持っていたお金を財布ごと与え助けてやったというシーンがありました。その岡っ引きはいいことをしたという気分になっていて、周りの同心や仲間たちも「お前もたまにはよいことをするなあ」なんて褒めていたのですが、越前だけは違いました。

そのお金で目の前の親子を救うことはできたかもしれないが、そんな親子が目の前に何組もいたらお前はどうした、と尋ねるのです。その岡っ引きは言葉に詰まります。そして越前は言うのです。自分は町奉行として、人々が心中をしなくてもすむような世の中にしたいと言うのです。

そのシーンを見て、ああ、全くその通りだ、と小学生だったあたしは感じました。確かに目の前の人を助けるのも大事だけれど、そういった状況を防ぐ、あるいはカバー、フォローするのが行政の役目であり、そのために自分たちは税金を払っているんだと。

あたしは、とても冷たい人間かもしれませんが、子供のころからそんな風に思っています。

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