まだまだ紙なの、かな?
タイトルの語調というか語尾は、「Q10」(日本テレビ系)の前田敦子を意識してしまいました(笑)。
さて、先週後半の研修旅行中、たまたま読んでいた新聞にソニーが電子書籍端末を年内に発売というニュースが載っていました。確か京都新聞の紙面でした。たぶん他紙でも扱いの大小に差はあれ載っていたことでしょう。
ドコモもスマートフォンを次々と投入で、その中にはiPadの対抗馬みたいなものもあるようです。いよいよハードが出揃って、来年こそ電子書籍の正真正銘の元年になるのでしょうか?
しかし、iPadって、くどいようですけど、電子書籍リーダーではないですよね。電子書籍リーダーとしても使えるタッチパネルPCなんですよね、本当は。電子書籍リーダーとしては今回のソニーの方がよっぽどそれに特化しているわけで、目の疲れにくさなどはiPadの比ではないようです。(あたくし、実物未見です。)
しかし、ソニーのものはカラーでもなければ動画が見られるわけでもないですよね。電子書籍に否定的だった宮部みゆきが電子書籍を出したのもイラストが動いたりして楽しいから、という理由だとか。だとすると、宮部みゆきもiPad向けの電子書籍ならオーケーでも、ソニーのリーダーやキンドル向けにはノーという態度を取るのでしょうか?
それにしても、一口に電子書籍と言ってもiPadとリーダーやキンドルとではできること(見せ方?)にこれほどの差があるなんて、よくよく考えてみるとおかしいのではないでしょうか? 第一、そうなると作る側もiPad用、キンドル用などと別々に作らなくてはならなくなるのでしょうか?(もちろん共通する部分も多いでしょうけど......)
と、いろいろ疑問というか問題点、まだまだ山積のようですが、この業界、多くの人が口にするのは「まだまだ紙の時代が続く。紙の優位はしばらくは揺るがない。ただ、ジャンルによっては電子が優勢になるものもあるだろうし、時代と社会の流れとして電子にも目配りをしておかないとならない」というようなセリフです。あたしも、似たような感想というか感慨を抱いております。
ところで、この電子書籍というのはグーテンベルクの印刷技術の発明以来の画期的なことなのでしょうか?
予想するのも困難ですが、当時の人たちは印刷された本(←果たして「本」という言い方は合っているのでしょうか?)を目にしてどう思ったのでしょうか? 便利になった、聖書が普及したという世界史的な感想は、たぶん当時の人の頭の中にはなかったのではないでしょうか? 作り手は別として。
むしろ、あたしが当時の、中世を生きた人間であれば、印刷された聖書を見て、「これはインチキだ」と言いそうです。つまりこれまでの筆写で伝わってきた聖書には一文字一文字に筆写した人の心、言うなれば信仰心が詰まっていて、それがそのまま信仰の拠りどころにもなっていたのではないかと思うのです。
それに対して印刷された聖書なんて、誰の気持ちもこもっていませんし、そこには拠りどころになるようなものはかけらも見出せない、そう感じてしまいそうです。
と思ったところ、ふと、気づきました。
そう言えば、この数年、手紙で同じようなことが言われるなあ、と。
電子メールが主流になって手書きの手紙が少なくなった昨今、大事な手紙や目上の人への手紙は手書きするものだ、と偉そうに説教を垂れる上司がいたり、やっぱりパソコンで作ったんじゃなくて手書きの年賀状はもらって嬉しいね、などと語る人が大勢います。
感じ方は十人十色で、最近はそんな風に感じない人も増えていると思いますが、このような意見にもまだまだ一定の理解があるのも事実でしょう。手書きの方が心がこもっているという意見、まだしばらくは命脈を保てそうです。
で、この意識というか感想というか感じ方、もしかすると中世の人たち、初めて印刷物を見た人たちの感想と似ているのではないか、そんな風に思われるのです。あくまで何の傍証も例証もありません。単なる想像です。妄想です(汗)。
年賀状で、手書きとパソコン自作と純然たる印刷の比率が、この数年どうなっているのかは知りません。でも、思いのほか手書きからパソコンへの流れは速いようですし、受け取る側の「手書きの方がいいよね」という意識も、これまたかなりのスピードで薄まっているような気がします。
中世は、たぶんこれよりももっと緩やかに時間が流れていたと思われるので、もう少し時間をかけて人々の意識が変化していったと思われます。もちろん筆写(手書き)が完全になくなるわけではなく、それはそれとして残り続けるわけですけど。
たまたま京都のお寺で、納経みたいなことをやっているのを見て、「これがパソコン印刷だったら成り立たないよね」と思いました。そもそも写経を印刷するなんて、「写」経じゃないじゃない、というものです。
さて、先週後半の研修旅行中、たまたま読んでいた新聞にソニーが電子書籍端末を年内に発売というニュースが載っていました。確か京都新聞の紙面でした。たぶん他紙でも扱いの大小に差はあれ載っていたことでしょう。
ドコモもスマートフォンを次々と投入で、その中にはiPadの対抗馬みたいなものもあるようです。いよいよハードが出揃って、来年こそ電子書籍の正真正銘の元年になるのでしょうか?
しかし、iPadって、くどいようですけど、電子書籍リーダーではないですよね。電子書籍リーダーとしても使えるタッチパネルPCなんですよね、本当は。電子書籍リーダーとしては今回のソニーの方がよっぽどそれに特化しているわけで、目の疲れにくさなどはiPadの比ではないようです。(あたくし、実物未見です。)
しかし、ソニーのものはカラーでもなければ動画が見られるわけでもないですよね。電子書籍に否定的だった宮部みゆきが電子書籍を出したのもイラストが動いたりして楽しいから、という理由だとか。だとすると、宮部みゆきもiPad向けの電子書籍ならオーケーでも、ソニーのリーダーやキンドル向けにはノーという態度を取るのでしょうか?
それにしても、一口に電子書籍と言ってもiPadとリーダーやキンドルとではできること(見せ方?)にこれほどの差があるなんて、よくよく考えてみるとおかしいのではないでしょうか? 第一、そうなると作る側もiPad用、キンドル用などと別々に作らなくてはならなくなるのでしょうか?(もちろん共通する部分も多いでしょうけど......)
と、いろいろ疑問というか問題点、まだまだ山積のようですが、この業界、多くの人が口にするのは「まだまだ紙の時代が続く。紙の優位はしばらくは揺るがない。ただ、ジャンルによっては電子が優勢になるものもあるだろうし、時代と社会の流れとして電子にも目配りをしておかないとならない」というようなセリフです。あたしも、似たような感想というか感慨を抱いております。
ところで、この電子書籍というのはグーテンベルクの印刷技術の発明以来の画期的なことなのでしょうか?
予想するのも困難ですが、当時の人たちは印刷された本(←果たして「本」という言い方は合っているのでしょうか?)を目にしてどう思ったのでしょうか? 便利になった、聖書が普及したという世界史的な感想は、たぶん当時の人の頭の中にはなかったのではないでしょうか? 作り手は別として。
むしろ、あたしが当時の、中世を生きた人間であれば、印刷された聖書を見て、「これはインチキだ」と言いそうです。つまりこれまでの筆写で伝わってきた聖書には一文字一文字に筆写した人の心、言うなれば信仰心が詰まっていて、それがそのまま信仰の拠りどころにもなっていたのではないかと思うのです。
それに対して印刷された聖書なんて、誰の気持ちもこもっていませんし、そこには拠りどころになるようなものはかけらも見出せない、そう感じてしまいそうです。
と思ったところ、ふと、気づきました。
そう言えば、この数年、手紙で同じようなことが言われるなあ、と。
電子メールが主流になって手書きの手紙が少なくなった昨今、大事な手紙や目上の人への手紙は手書きするものだ、と偉そうに説教を垂れる上司がいたり、やっぱりパソコンで作ったんじゃなくて手書きの年賀状はもらって嬉しいね、などと語る人が大勢います。
感じ方は十人十色で、最近はそんな風に感じない人も増えていると思いますが、このような意見にもまだまだ一定の理解があるのも事実でしょう。手書きの方が心がこもっているという意見、まだしばらくは命脈を保てそうです。
で、この意識というか感想というか感じ方、もしかすると中世の人たち、初めて印刷物を見た人たちの感想と似ているのではないか、そんな風に思われるのです。あくまで何の傍証も例証もありません。単なる想像です。妄想です(汗)。
年賀状で、手書きとパソコン自作と純然たる印刷の比率が、この数年どうなっているのかは知りません。でも、思いのほか手書きからパソコンへの流れは速いようですし、受け取る側の「手書きの方がいいよね」という意識も、これまたかなりのスピードで薄まっているような気がします。
中世は、たぶんこれよりももっと緩やかに時間が流れていたと思われるので、もう少し時間をかけて人々の意識が変化していったと思われます。もちろん筆写(手書き)が完全になくなるわけではなく、それはそれとして残り続けるわけですけど。
たまたま京都のお寺で、納経みたいなことをやっているのを見て、「これがパソコン印刷だったら成り立たないよね」と思いました。そもそも写経を印刷するなんて、「写」経じゃないじゃない、というものです。
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