図書室はどこ?
毎朝10分間でもいいから本を読もうという「朝読」、さらには自宅でも本を読もうという「家読」、どちらの運動も静かに着実に根付いてきているようです。読書離れ、活字離れ、本離れと言われて久しいですが、出版界としてもこういった運動を支援し、少しでも本に親しんでくれる人を増やそうと努力しているわけです。子供の頃から本に親しんでいれば、大人になっても本を読む習慣ができるはず、そうなれば本を買ってくれる人が増えるから出版社も書店も売り上げが上がる、そんな現実的な要請もありますが......。
ところで、そうやって子供たちに読書推進、本を読もうと働きかけている自分たちは、果たして学生時代にどのくらい本を読んでいたのでしょうか? 本を読んでいたかどうかよりも、そもそも小中高の図書室がどこにあったのかすら思い出せません。
小学生の時は、あたしは結構本を読む子供でした、画用紙のような者で作られている貸し出し簿が一枚では足りず、一年間で何枚にもなったこともあります。どんな本を読んでいたかと記憶をたどってみると、あまり確かな記憶はありませんが、図鑑とか何々百科というような本をよく眺めていた記憶があります。
逆に、怪盗ルパンとか少年探偵団などのミステリーは、劇画っぽい表紙が怖くて手に取ることすらしていませんでした。自宅にもあった子供のための伝記、どこの出版社のものだったのかも覚えていませんが、これはだいぶ読んだような記憶がありますが、表紙に描かれている偉人の顔のイラストが、やはり幼いあたしにはとても怖くて、睨まれているようで、手に取るまでにかなり時間がかかったという想い出があります。自宅の本棚に入っていても、表紙はできるだけ見ないようにしていたものです。
タイトルが合っているかわかりませんが、記憶の糸をたどると、『もちもちの木』『十三湖のばば』『ベロ出しちょんま』『長い長いペンギンの話』といった作品を読んだ想い出があります。ストーリーはほとんど忘れてしまっていますが(汗)。
中学は、本当に図書室の想い出がありません。まさしく「図書室はどこ?」という状態です。ですから、本を借りたという記憶もありません。自宅日本があったからそれを読んでいた、という記憶もないんです。中学の時は本をほとんど読んでいなかったのでしょうか?
なんか、そんな気がしてきました。でも、本を読むのが嫌い、というわけではありません。どちらかと言えば、「当たり障りがない」ということもあって、趣味は読書、という一面を持っていたことは確かです。それに小学生の時から続いているのですが、中学でもあまり友達ができず、どちらかと言うと嫌われっ子だったので、あまり友達と遊んだという記憶もありません。だからといって本の世界に逃げていたという記憶もないんです。
もしかすると、暗かった中学時代を思い出したくないがために、そういった中学時代の記憶を自分の頭の中から根こそぎ消してしまっているのかも知れません。
高校では、やはりクラスには馴染めませんでした。だから「人間って何だろう」という、自分では哲学的だなどと思ってもいませんし、実際にそんな高尚な問いではないのですが、でもそんなことを考えていて、たまたま好きだった歴史小説からの流れで中国の古典を読むようになりました。
いわゆるオーソドックスな『論語』『孟子』『老子』などももちろん読みましたが、一番影響を受けたのは『韓非子』や『荀子』『荘子』などで、人間不信は正しいんだ、他人を信じてはいけないんだ、ということを古代の偉人によって保証してもらったような気分になりました。
ただ、こういった本、学校の図書室で借りたわけではありません。自分の家で買って(父親に買ってもらって)読んでいました。この頃から、自宅に中国関係の本が増えるようになったのです。もちろん三国志や史記といったスタンダードな古典はもとより、とりあえずは現代語訳ですが、かなり片っ端から読みました。
そういう感じで読んでいった本、ほとんどすべての本は買ったものです。学校の図書室や近所の図書館で借りたものではありません。いま思うと、あたしは昔から欲しいものは手に入れる(←強欲という意味ではなく)タイプで、借りるのは性に合わなかったようです。人が触ったものを触れない、というほど潔癖症なわけではありません。ただ、いろいろな人が借り出してボロボロになった本はやはり読みたくありません。好きな本なら何回でも読み返せるように手元に置いておきたい、と思っていただけだと思います。
だからでしょう。高校も図書室がどこにあったのか記憶にありません。そもそも図書室はあったのだろうかという不謹慎な感慨すら覚えます。いや、ごくごく普通の高校でしたから、図書室はあったはずです。図書委員だっていたはずです。でも、どこにあったんでしょう? 思い出せません。
出版社で本を作って売り歩いているあたしが、こんな学生字の読書体験でよいのでしょうか? と思うものの、案外出版社の人間が集まって話をすると中学、高校ではこの程度の読書体験だったりする人が多いものです。あたしと同様、図書室の記憶がすっぽり抜け落ちている人も大勢いるようです。
あたしたちの頃は「朝読」「家読」なんて運動がなかったから、そんな言葉すら存在しなかったから当然と言えば当然かも知れませんが、ちょっと情けないです。あたしはたまたま高校時代に興味の方向性ができて、そういう分野の本を読むようになって、そのまま大学もそっち方面に進んでますますのめり込んだわけですが、そういうきっかけがなかったら、本とは縁のない、だからこういう職業にも就いていなかった可能性が高いですね。
でも、そうなったら、とっくの昔にもっと高給がもらえる企業に就職して、結婚して幸せな家庭を築いていたのかも知れません(笑)。
ところで、そうやって子供たちに読書推進、本を読もうと働きかけている自分たちは、果たして学生時代にどのくらい本を読んでいたのでしょうか? 本を読んでいたかどうかよりも、そもそも小中高の図書室がどこにあったのかすら思い出せません。
小学生の時は、あたしは結構本を読む子供でした、画用紙のような者で作られている貸し出し簿が一枚では足りず、一年間で何枚にもなったこともあります。どんな本を読んでいたかと記憶をたどってみると、あまり確かな記憶はありませんが、図鑑とか何々百科というような本をよく眺めていた記憶があります。
逆に、怪盗ルパンとか少年探偵団などのミステリーは、劇画っぽい表紙が怖くて手に取ることすらしていませんでした。自宅にもあった子供のための伝記、どこの出版社のものだったのかも覚えていませんが、これはだいぶ読んだような記憶がありますが、表紙に描かれている偉人の顔のイラストが、やはり幼いあたしにはとても怖くて、睨まれているようで、手に取るまでにかなり時間がかかったという想い出があります。自宅の本棚に入っていても、表紙はできるだけ見ないようにしていたものです。
タイトルが合っているかわかりませんが、記憶の糸をたどると、『もちもちの木』『十三湖のばば』『ベロ出しちょんま』『長い長いペンギンの話』といった作品を読んだ想い出があります。ストーリーはほとんど忘れてしまっていますが(汗)。
中学は、本当に図書室の想い出がありません。まさしく「図書室はどこ?」という状態です。ですから、本を借りたという記憶もありません。自宅日本があったからそれを読んでいた、という記憶もないんです。中学の時は本をほとんど読んでいなかったのでしょうか?
なんか、そんな気がしてきました。でも、本を読むのが嫌い、というわけではありません。どちらかと言えば、「当たり障りがない」ということもあって、趣味は読書、という一面を持っていたことは確かです。それに小学生の時から続いているのですが、中学でもあまり友達ができず、どちらかと言うと嫌われっ子だったので、あまり友達と遊んだという記憶もありません。だからといって本の世界に逃げていたという記憶もないんです。
もしかすると、暗かった中学時代を思い出したくないがために、そういった中学時代の記憶を自分の頭の中から根こそぎ消してしまっているのかも知れません。
高校では、やはりクラスには馴染めませんでした。だから「人間って何だろう」という、自分では哲学的だなどと思ってもいませんし、実際にそんな高尚な問いではないのですが、でもそんなことを考えていて、たまたま好きだった歴史小説からの流れで中国の古典を読むようになりました。
いわゆるオーソドックスな『論語』『孟子』『老子』などももちろん読みましたが、一番影響を受けたのは『韓非子』や『荀子』『荘子』などで、人間不信は正しいんだ、他人を信じてはいけないんだ、ということを古代の偉人によって保証してもらったような気分になりました。
ただ、こういった本、学校の図書室で借りたわけではありません。自分の家で買って(父親に買ってもらって)読んでいました。この頃から、自宅に中国関係の本が増えるようになったのです。もちろん三国志や史記といったスタンダードな古典はもとより、とりあえずは現代語訳ですが、かなり片っ端から読みました。
そういう感じで読んでいった本、ほとんどすべての本は買ったものです。学校の図書室や近所の図書館で借りたものではありません。いま思うと、あたしは昔から欲しいものは手に入れる(←強欲という意味ではなく)タイプで、借りるのは性に合わなかったようです。人が触ったものを触れない、というほど潔癖症なわけではありません。ただ、いろいろな人が借り出してボロボロになった本はやはり読みたくありません。好きな本なら何回でも読み返せるように手元に置いておきたい、と思っていただけだと思います。
だからでしょう。高校も図書室がどこにあったのか記憶にありません。そもそも図書室はあったのだろうかという不謹慎な感慨すら覚えます。いや、ごくごく普通の高校でしたから、図書室はあったはずです。図書委員だっていたはずです。でも、どこにあったんでしょう? 思い出せません。
出版社で本を作って売り歩いているあたしが、こんな学生字の読書体験でよいのでしょうか? と思うものの、案外出版社の人間が集まって話をすると中学、高校ではこの程度の読書体験だったりする人が多いものです。あたしと同様、図書室の記憶がすっぽり抜け落ちている人も大勢いるようです。
あたしたちの頃は「朝読」「家読」なんて運動がなかったから、そんな言葉すら存在しなかったから当然と言えば当然かも知れませんが、ちょっと情けないです。あたしはたまたま高校時代に興味の方向性ができて、そういう分野の本を読むようになって、そのまま大学もそっち方面に進んでますますのめり込んだわけですが、そういうきっかけがなかったら、本とは縁のない、だからこういう職業にも就いていなかった可能性が高いですね。
でも、そうなったら、とっくの昔にもっと高給がもらえる企業に就職して、結婚して幸せな家庭を築いていたのかも知れません(笑)。
読んだ感想を書く