2010年11月16日

耳の世代と目の世代

今宵はリブロ吉祥寺店で、「池内紀さん・西江雅之さんトークセッション」を聴いてきました。

いやー、面白かったです。池内さん、西江さん、どちらもあたしの勤務先とは因縁浅からぬ方、それにテーマが関口存男さんのこと、言葉のこととなれば、おのずと期待が高まるというものです。以下、聴きながら取ったメモより......

まずはトークイベントの元となった池内さんの新刊『ことばの哲学』について池内さんご自身は、専門用語を使わない専門書を書こうと思った、とのことです。あれだけの学者について、本来ならドイツ語学の専門の方がそのうち書くだろうと思っていたのに誰も書こうとしないので、語学に関しては門外漢だけど、自分なりにどんな人か知りたいと思ったので書き始めた、ということです。うん、この手の本、得てして、その道の人が書いたのではつまらない評伝になりがちですから、ちょうどよい距離感のある人が書く方がよいと思います。

西江さんは、言葉について「知覚で分ける」こと「言葉で分ける」ことについてひとくさり。「知覚で分ける」とは、たとえば「首」と「肩」の分かれ目は人間誰しもなんとなく感覚的にわかっている。ところが、あえて「肩」「首」という言葉を使うことによって分けようとすることが「言葉で分ける」ということ。例えば、「腕のない人」と言った場合、日本人なら(日本語なら)肩から下のない人を想像する人がほとんどだろうけど、言語によっては「腕」「手」など、上での部位ごとに単語が異なり、日本語ような「腕のない人」という表現が成立しない言葉もあるという。

ただし、西江さん曰く、このように単語という概念を持っている言葉は、世界の言語のうちでむしろ少数派なのだとか。多くの言語は単語ではなく、意味のまとまりがあるだけだそうです。そして、言葉とは音と意味と意味の繋がりによってできている、とのこと。

また池内さんの、蓋し名言(迷言?)......
よく人は、言葉を習得するには、その言葉を使う人を恋人にすればよいと言うけれど、実のところ愛に言語はいらない、言葉がいるのは別れるときだ

そして西江さんのおもしろ雑学......
いくら書き取りをしても覚えられない単語がある反面、1回聴いただけで覚えてしまう単語もある、例えば、スワヒリ語で男性の生殖器は「ボー」、女性の生殖器は「ウケ」という。これは一度聴いたら誰でも一度で覚えてしまうでしょう!

さらに西江さんの含蓄のある一言......
この十数年、世の中がおかしくなってしまったのは、知覚がすべて言語と結びついてしまったからではないか。美味しいものを食べたときに「美味しい」と言葉で表現するのではなく、飛び上がったり踊り出したりする、そういう表現方法があってもよいのに、現代の世の中はすべて言葉で表現してしまっている、と。

それを受けて池内さん......
表現したいことを話すために言葉を使うが、話すから誤解が生じる

また関口存男とウィトゲンシュタインはほぼ同じ時期に生まれ、同じ頃に死んでいて、地球の反対側で同じようなことに興味を持っていた。ウィトゲンシュタインが200ページで書き表わしたことを関口存男は2000ページを使っても書ききれなかった、とのこと。

イベントは後半へ。

池内さんや西江さんなどは、テレビのなかった時代、つまりラジオを聴いて育った耳の世代であり、現代の人たちはテレビのある時代、つまりテレビを見て育った芽の世代である。この二つ世代の音に対する感覚の違いは大きいのではないか?

頭で理解している単語の数は1万くらいあっても、使っている単語(吐き出せる単語)はせいぜい数百という若者が多い。この両者の差を縮めることが大切ではないか。使える単語というのは、知らぬ間に身につけた生理と結びついて吐き出されるものである。また、言葉を話せば話すほど、人格から離れていく、と。


メモを見返して、自分がよく理解できていないところが多々あるのに自己嫌悪。情けない。上のメモからの抜き書きも、あたしの勘違いが多分に含まれていると思われるので、池内先生、西江先生がそうおっしゃっていた、と鵜呑みにしないでください。あくまで、あたしはこう聞いた、こう受け取った、というものです。


で、さてあたし的には、「耳の世代」と「目の世代」という表現が印象深かったです。

動物が生きていく上で、ある動物は嗅覚に頼り、ある動物は聴覚に頼り、というふうに、動物は多くの場合、何らかの感覚に寄りかかっているもので、人間の場合は視覚に頼って生きている動物である、ということを何かの本で読んだことがあります。この学説が正しいのかどうかはわかりませんが、確かに人間の五感(六感)の中で何が失われたら一番困るか、絶望的になるかを考えてみると、やはり視覚ではないでしょうか?

ただ、今日のお二人の話を聞いていて、現代人はあまりにも視覚依存が強くなりすぎているのかな、かつての人間はもう少し聴覚や嗅覚に頼る割合(比率?)が高かったのではないかな、という気もします。

最後に、西江さんの『花のある遠景』も、近々復刊だそうです。


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