2010年8月22日

書評をやめよう?

毎週日曜日は新聞各社の紙面に書評が載る日です。書評とは言わないのかな? 読書欄って呼ばれることの方が多いでしょうか?

ただ、業界では「朝日の書評」とか「日経の書評」などと呼んで通っていますので、まあ、書評でよいでしょう。

ところで、この読書欄なり書評欄って、いつ頃から始まった企画なのでしょうか? もう数十年はやってますよね? よくよく考えると長いですね。

東京に住んでいると四大紙くらいにしか目が向きませんが、地方の地元紙もたいていは日曜日に読書欄を設けているようです。なので、ある地方の新聞で紹介され誰がために、その地方の書店さんからだけ注文が殺到するということもままあります。注文が来て初めて、その地方の新聞で紹介されたことに気づく場合もあります。

ところで、ふと思うのですが、この読書欄、各新聞で一斉にやめてしまったらどうなるのでしょうか? 本屋の売り上げに相当影響を与えるのでしょうか?

なんでこんなことを考えたかと言いますと、このところ本の広告にしろオビにしろ書店員さんのコメントが花盛りで、もちろんその象徴的なものとしての本屋大賞も確たる地位を築いているわけなのですが、書店を回っていますと、そろそろ書店員のコメントも食傷気味、出すぎだという意見を聞くようになったからです。

書店員さんのコメントが多くなったのは、まだ数年の話で、食傷気味と思われるほどあっちにもこっちにも登場するようになったのは最近というイメージがあります。それでも若干の食傷気味な感じはあるのですが、だったら新聞の読書欄なんて、もう何十年もやっているのだから、食傷どころの話ではないのではないか、そう思ったわけです。

確かに、「新聞書評に出たからといって昔ほどは売れなくなった」という声はよく聞きますが、だからといって「もう新聞の読書欄なんてやめちゃえば」という意見は聞きません。やはり、影響力が落ちたとはいえ、今でも本の売り上げに一番影響力を持っていることに変わりはないのでしょう。ブログだツイッターだと騒がれても、やはり今でも新聞の読書欄が一番影響力があるというのが当たり前のようにも感じますが、不思議でもあります。

いっそのこと、新聞だけでなく、週刊誌などの本の紹介ページも全部やめてしまったら、本当のところどのくらい書店の売り上げって落ちるのでしょうか? 壮大な実験になりそうですが、あたしはそれよりも、書評がなくなることによって購買活動ではなく選書活動にどのような影響が出るか、に興味があります。

「選書」には、書店がどの本を仕入れ、どの本を並べるかという面と、読者がどの本を選び、どの本を買うかという面の二つがあると思います。

このような言い方をすると怒られるかもしれませんが、書店員だってあらゆる本に目を通すことは不可能ですから、書評で取り上げられた本を並べておけば一安心、という気持ちはあると思います。自分では何も考えず工夫することもなく、ただ、いろいろなメデイアに紹介された本だけをとりあえず並べている書店だって、結構あるのではないでしょうか?

読者も、自分でパラパラと数ページでも読んでみて(これくらいの立ち読みは推奨!)、自分の判断で本を選べばよいものを、自分では選べないから書評に出ていた、というだけで買ったりしている人がかなり多いのではないでしょうか? 小中学生にとっての夏100なんて、その最たるものです。自分で感想文を書く本なのだから、自分が読みたい、と思う本を自分で選ばないとダメなのに、選べないから、出版社があらかじめ用意してくれている中から選ぶなんて......。

どっちもどっちですね。

いや、そんな依存傾向になる書店も読者も、書評がなくなったらどうなってしまうのだろう、そう考えると、実はちょっとワクワクします。もちろん、今だって書評なんて関係なく、自分だけの選書眼で本を仕入れ並べている書店さんはたくさんあります。書評なんて気にせず、気に入った本を買って読んでいる読者もたくさんいます。

それでも、もし本当にあらゆる書評欄がなくなったら、どうなるのでしょうか? 雑誌「ダ・ヴィンチ」と「本の雑誌」が飛ぶように売れるようになるのかしら?

そうそう、「もし」と言えば、現在『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』がベストセラーになっていますが、あたしがもし作家だったら、パロディ『もしドラッカーが高校野球の女子マネージャになったら』という小説を書きます(爆)。じいさん、やかんを持って走り回って、苦労するだろうなあ。

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