2010年8月31日

本屋で泣くな!

暑さも慣れたというか、麻痺したというか、とにかく本日も営業回りでした。そんな営業回りの途次、歴史書(中国史)の棚で見つけた一冊。



この手の本は、買うかどうかは別にして、ひとまず手に取ってしまいます。学生時代以来の職業病(学問病)でしょうか?

決してハードな研究書ではないので、どの記事もそこそこにちょうどよい長さ、分量で、写真などの図版も豊富、オールド上海に興味ある人には買っておいて損はない本だと思います。万博で浮かれていますけど、やはり上海の華は1930年代ではないでしょうか? そう思います。

そんな本書ですがパラパラ眺めていますと、目次の「上海の夜と霧―『阿片王・里見甫』を振り返って」という章が目につきました。筆者は佐野眞一です。里見甫の本を数年前に上梓していますから、筆者としてはうってつけでしょう。

  

なので、立ち読みはよくないと思いつつ、この里見甫のところをちょっと斜めに読んでみました。ちなみに、里見甫は「さとみ・はじめ」と読みます。

で、ふとその文章の中に、あたしの大学時代の恩師、今は亡き中下正治先生の名前を発見いたしました。中下先生が最晩年の里見甫にインタビューをしていたことは知っていますし、そのインタビューの記録ノートもご自宅で拝見したことがあります。

佐野眞一が里見甫の伝記を執筆するに当たって、それは既に中下先生の没後でしたが、そのインタビュー記録を借りに来たということも聞き及んでいます。その佐野氏の最初の著作では、管見の及ぶ限り、中下先生の名前が出てこなかったので、個人的に密かに憤慨したものです。もちろん、中下先生は名前の出る、出ないを気にされるような方ではありませんが、狭量な不肖の弟子としてはどうしても気になるものです。

しかし、今回の著作で、佐野氏はしっかりと先生の名前を文章中に挙げてくれていました。そのことが嬉しかったのと、久しぶりに先生の名前を目にした懐かしさで、仕事中、営業中であるということも忘れて、あたしはちょっと涙ぐんでしまいました。もちろん、よい歳をした大人ですから号泣なんかしません。グッとこらえました。

もちろん、本書を手に取ってレジに向かったのは言うまでもありません。



それにしても、上海や北京、天津を中下先生や伊地智善継先生と歩きたかった、と今さらながら悔やんでも遅いですけど......

身の程知らず?

こんなお題がありました。

彼女となる人に最低限求めるもの9パターン

いわゆる「これだけは譲れない」ってことですよね? しかし、人生において一度も恋人ができたことのないあたしがこんなことを言うのは身の程知らずと笑われてしまうでしょう。

【1】ウソをつかないこと
【2】ゴミのポイ捨てをしないなど、マナーが守れること
【3】金銭感覚が似ていること
【4】キレイ好きであること

このあたりまでは、恋人でなくても、友人にだって求める条件ではないでしょうか? だって、これらの項目で合わなかったら、たとえ同姓であったって仲良くなれませんよね?

【5】服装や言葉遣いが下品ではないこと
これはちょっと。あたし自身ファッションセンスが、しばしば人からいろいろ言われるので、相手に言えるような立場ではないです。言葉遣いは、ある程度キャラクターにもよるかも、と思います。

【6】周囲に気遣いができること
そもそもあたしが気遣いのできない人なので、やはり相手にだけそれを求めるのはちょっと不公平ですよね?

【7】一緒にいて元気になれる明るさがあること
元気になれる人ってのはいいのですが、ただ、一見すると暗い感じの子が、あたしは好きです。

【8】話を聞いてくれること
やはり、あたしも人の話を聞かない人間なので......。会話の時に人の話を聞かない、というのではなく、頑固で絶対に人の意見を取り入れない、という意味であれば、やや困ったものだと思います。

【9】彼氏に対して依存しすぎないこと
しばしば恋愛コラムで聞く「依存」という言葉。恋人イナイ歴=年齢のあたしには全くわからない概念です。どういうことなのでしょうか? どなたか教えてください。

で、結局のところ、あたしが求める唯一の条件は、あたしのことを好きになってくれること、これのみです。だって、生まれてこの方、人から好かれた、好きになられたという経験がないものですから、まずはこれです、これしかありません。

縁は異なもの

とかく理解しがたいのは男女の仲。

このあいだまで、あれほど熱烈に広末涼子を追いかけていた永井大が、あっという間に今度は中越典子と親密交際だとか。広末が脈ナシだからさっさと心を入れ替えた、切り替えたということなのでしょうか? しかし、そんなに簡単に気持ちって変わるものなのでしょうか? あたしには理解できません。

中越典子の方はどうなのでしょうか? 永井大と付き合うようになった頃、広末涼子のことが気にならなかったのでしょうか? 「この人、あんなに広末さんのことを愛していたはずなのに、もう忘れちゃったのかしら?」と、そんな風に思わなかったのでしょうか? それに、その時点で中越典子には付き合っている別の男性というのはいなかったのでしょうか? いろいろ疑問というか、興味は尽きません。

また、こちらは交際もオープンにしていた藤本敏史と木下優樹菜の二人。歳の差が17歳なんてことは愛があれば、というよりも、芸能人には関係ないことかもしれませんが、あたし、この二人、実はお互いの本当の恋人を隠すための隠れ蓑だと思っていたんですよね。見事に騙されました。

それにしても、こちらは藤本が木下に猛アタックをかけて、晴れて付き合うようになったとのこと。猛アタックって、一つ間違えればしつこいだけ、単なるストーカーの一歩手前ですよね。やはり「マメ」な方がモテるのでしょうか? それにしても、やはり気になるのは藤本から猛アタックされてた頃、木下の方には付き合っていた彼氏とかいなかったのでしょうか? もっと若い彼氏がいたとしてもおかしくないと思うのですが、なぜに藤本を選んだのか。

縁は異なもの、とはよく言ったものです。いや、蓼食う虫も好き好き、でしょうか?

2010年8月30日

マスコミの大罪

新潮新書『テレビの大罪』読了。

著者の言いたいことはよくわかりますし、かなりの部分であたしも同感しますし、あたしもずっと感じていたことでもあります。

若干、焦点がずれているなと感じるところもあり、どうせなら著者専門の医学の分野にすべて引きつけて批判を展開してもよかったのではないかという気もしますが......

で、著者はテレビを特にやり玉に挙げていますが、あたしは同じようにラジオだって新聞だって、同じ穴の狢だと思います。著者ももちろんそう思っているようではありますが、その影響力の大きさから特にテレビに的を絞って批判したわけです。

さて一つ、著者も書いていませんが、少年犯罪について一言。

少年犯罪が起こったとき、新聞もテレビも被害者よりも加害者、つまり事件を起こした少年の心の闇といったことをすぐ言い出して、さも加害者が現代社会の被害者出逢ったかのような扱いをしています。

もちろん、現代社会が生み出し犯罪という面はあるのかも知れませんが、あたしが不思議でならないのは、どうしてまずもって、真っ先に「この少年は犯罪を犯したんだ、悪いことをしたんだ、許されないことをしたんだ、してはいけないことをしたんだ」とはっきり指摘しないのでしょうか?

テレビのアナウンサーにしろコメンテーターにしろ、ましてや識者と呼ばれる人たちも、ほぼ間違いなく、加害者の少年が悪いことをしたんだという事実を指摘しません。たとえどんなに情状酌量の余地があろうとも、まずはいけないことをしたんだと、きちんと指摘してやるのが筋ってものではないかと、あたしは思います。

著者も書いているように、テレビはとかく珍しい事例をセンセーショナルに取り上げ、それを一般化してしまう嫌いがあります。だから、少年は悪いことをしたという、もっとも基本的なことをあえて指摘しないのではないでしょうか? 愚かです。

なお、著者が触れなかった、新聞記者もあまり優秀とは言えなさそうですが、「出版は文化だ」と言って偉そうにしている、出版業界の人も、実はあたしは大嫌いです。新聞記者が、「ペンは巨悪を暴き、正義を貫く」と言ったり、テレビ関係者が「われわれには国民に伝える義務がある」なんてセリフを言うときと同様、この出版界の人たちのセリフにも胸くそが悪くなります。

いま現在発行されている新聞やテレビ番組や書籍のどこに、正義や文化や教養があるというのでしょうか?



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