2010年7月26日

アヒル口と便所飯

なぜアヒル口に惹かれるのか』と『なぜ若者はトイレで「ひとりランチ」をするのか』、ともに読了。

あたしは、特にアヒル口がカワイイとは思いません。アヒル口だから好きになるとかカワイイと思うとか、それこそ「萌える」ということはないです。でも、確かに世間ではアヒル口がもてはやされているような気はします。本書にも幼児性という指摘がありますが、そういう口を人工的に作っている女性も、そういう口に萌える男性も幼児性と言われれば、確かにそんな気がしてきます。

ただ、本書は別にアヒル口だけを取り上げているのではなく、人はどのような表情や顔立ちに好印象を抱くのかといった問題を脳科学や心理学の立場から明らかにしていきます。そういう意味では、アヒル口が流行る社会学的、文化人類学的な読みものではありません。

それにしても、アヒル口というと上戸彩、広末涼子、田中美保なんですか。あたしには(ポリスの)スティングしか考えられませんが......



さてさて、「便所飯」は都市伝説なのでしょうか? 同書では実際に大学などで確かに存在する事例のようではありますが、決して広がっているわけではないし、大多数がそんなことをしているわけでもない、という立場です。

ただ、そういう話がまことしやかに流され、それを事実だと思い込むような社会の空気というか背景は考察すべきだということです。まったく同感です。

ですので、本書も、先に挙げた「アヒル口」本と同様に、タイトルと内容が若干ずれている印象を受けます。この本は、日本の教育が性能から性格を評価するようになってからおかしくなったと指摘しています。いわゆる、受験戦争、詰め込み教育の弊害に対する反省として起こった、人間教育が、客観的に評価する基準もなければ、教育の仕方すら確立していない現状では(恐らく将来にわたっても、そんな基準は作れない)、子どもには明確な目標がなく頑張りようがなくなってしまうと、そんな風に述べています。

ケータイで連絡を取り合う相手はたくさんいても、友達や親友はいないという現代の若者、友達がいないことが怖いのではなく、友達がいないと周囲から思われるのが怖いという心理、なかなか面白い考察です。

それにしても、あたしなどは著者と同じような年齢、世代になるわけですが、この手の本を読むとどちらかというと描かれている(考察の対象となっている)若者にシンパシーを感じてしまいます。しばしば、自分ことを言われているような気さえを起こります。

もちろん、すべてではないのですが、あたしなりに考えてみますと、恐らくこういった現代若者論で指摘される問題点などが、実はあたしの世代あたりから始まっていた、ということなのではないでしょうか?

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