2010年7月 2日

人文の境目

もうあたしの勤務先のウェブサイトの「新刊案内」に予告が出ていますが、上下本の『毛沢東』の評伝が今月半ば刊行になります。現在は、その販促の真っ最中なのですが、これがなかなか一筋縄ではいきません。

その原因は、書店へ行って、どの人に販促したらよいでしょう(?)という点です。人文担当の方でよいのでしょうか?

実際に書店を回っていますと、『毛沢東』に関しては、人文ではなく社会、つまり海外情勢、国際政治などの担当の方に販促しなければならない場面が多いです。「ああ、毛沢東はまだ歴史ではなく、現代史の扱いなのか」と認識させられます。先日刊行した『スターリン』も、毛沢東と同じ時代を生きた人物で、実はこの『スターリン』も、書店を回っていますと、歴史、つまり人文の棚に置いてある本屋もあれば、海外事情、つまり社会の棚に置いてある本屋もあるのです。

いまここで、あたしはどっちに置くべきだとか、どっちに置いてください、といったことを書きたいのではありません。それは、あくまでも各書店の担当者の判断に任せられるべきことであり、担当の方の考えもあれば、その書店の棚の構成という問題もあります。もちろん、その書店の客層も大事な点でしょう。

で、そういう話は置いておき、あたしが書きたいのは、どこまでが人文で、どこからが社会なのかという点です。前にも書いたような気がしないでもないですが、構いません、また書きます。

一般に多くの書店の人文書のコーナーの「歴史」は第二次大戦をひとつの区切りとしているところが多いようです。第二次大戦までが「人文」、第二次大戦以降が「社会」という区分けです。あたしなども、もう十分古い人間なので、この分け方に違和感を感じないところもあるのですが、平成が二十年以上経過し、戦後も六十年を越えた今、第二次大戦後を「社会」としておいていいのだろうか、という気持ちも芽生えつつあります。

確かに、書店の人文担当の方が入社数年の若い人だったら、朝鮮戦争だってベトナム戦争だって、もう完全に「歴史」ではないでしょうか。それどころか、湾岸戦争だって「歴史」と思うかもしれません。では、何をもって「人文」と「社会」の分け目にすればよいのでしょう?

でもそれは、出版社が決めることではないですよね。やはり各書店がそれぞれの判断で決めることではないでしょうか。そして書店に判断を促すのは、お店に来るお客様だと思います。読者の方の多くが「湾岸戦争は歴史だろ」「冷戦は歴史上の出来事」という考え・認識になれば、書店の方もおのずとそれに従うことになるのではないでしょうか。

そして、今回、このような判断に迷う本が出ることによって、いみじくも書店の担当の方と人文と社会の狭間について語り合う機会ができました。そこで出た結論というのは、この分け方、両ジャンルの境目については現在、再考すべき時機に来ている、少なくとも10年後にはほとんどの書店で「人文・歴史」と「社会・各国時事」の境について、何らかの変更が起こっているだろう、ということです。

果たして、本当にそうなるのか。あたしはかなりの確率で、境目の変更というのが起きるのではないかと思っています。

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