2010年6月 3日

的、性、然?

昨日書いたダイアリーで、タイトルを「穂村弘的」としたのですが、寝床に入ってから、「あれ? 正しかったのかな?」という疑念が沸き起こりました。

何にでも「的」を付けて話すのはよくない、というのは、もう数十年も前から言われている言説で、しばしば「的」と「性」を使わずに文章を書いてみろ、などというお題目も唱えられたりしたものです。

まあ、そこまで小難しく考えなくとも、今回「的」を使ったのは正しかったのだろうか、とちょっぴり自問自答です。

「的」を使うからには、あたしが「穂村弘」というものをきちんと捕らえられていないとならないわけで、あたしがあたしなりに「穂村弘」を把握、認識できてはじめて「穂村弘的」と語ることが出来るのではないか?(あ、たまたま今回は穂村弘さんですが、別に穂村弘さんでなくても言えることです、念のため)

で、それなら、「今回の新刊のちょっと読んだ印象は、穂村弘性にあふれている」とでも表現すればよかったのか? いや、これも違う。だったら、まだ「穂村弘的」の方が正しい感じがします。

「こんどの新刊、なんか穂村弘然としているよね」と言えるでしょうか? 穂村弘然って、そもそも何なんだか、自分でもよくわかりません。「穂村弘的」と表現するために「穂村弘」を知っていなければならない、それ以上に、「穂村弘然」と表現するには「穂村弘」を熟知していなければならないような......、そんな気がします。いや、「穂村弘的」と述べるときの「穂村弘」と「穂村弘然」と語るときの「穂村弘」とは異なるのではないか、一緒くたに扱ってはいけないのではないか、そんな思いも沸き起こってきます。

悶々とした寝床の中で、ふと思いついたのは、「こんどの新刊って、穂村弘さんの本を読んでるみたいな印象だよね」とか、「こんどの新刊の文章って、穂村さんのエッセイの文体に似てる気がする」って、語ればよかったのかもしれない、そう思い至りました。

これなら、見事に「的」も「性」も「然」も使わずに表現できています。

もちろん、「こんどの新刊って、ぶっちゃけ穂村弘系だよね」とは言いません!

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