2010年4月13日

自称の英仏語化?

ちくま新書の『日本語は亡びない』を読んでいますが、なかなか刺激的で面白いです。

で、同書の本筋とは関係ないのですが、ふと気になったことがあります。
平均的なサラリーマンであれば、会社の上司に対しては「私」、後輩や妻に対しては「僕」や「俺」、子供に対しては「パパ」や「お父さん」などだろうか。最後の二つでは明らかに名詞となっている。さらに方言は変わるだろうし、時代を遡っても変化している。
これは、同書77ページの文章です。英語やフランス語が自分を表わす人称代名詞が一つしかないことに対して日本語のバラエティさを述べているくだりです。

ここであたしが言いたいのは日本語論でも比較言語論でもなく、自分を指す言葉のことです。著者が言うように平均的なサラリーマンは上記のように使い分けているらしいです。たぶんOLだってOLなりに、学校の先生は先生なりに、学生も学生なりに使い分けているのでしょう。

ところが振り返ってあたしのことを考えてみますと、あたしって、ほとんど会社でも学生時代も、家でも、ずーっと「あたし」一本槍なんです。仕事の中では対外的に「私」を使ったりもしますが、かなり「あたし」に近い発音ですし、二度、三度逢って慣れてしまえば、相手の肩書きに関係なく「あたし」です。

会社でも上司、後輩に関係なく、雑談の時も会議の時も「あたし」です。家でも(家族は母親しかいませんが)母親に対しても「あたし」です。そればかりか親戚のおじさん、おばさんにも、いとこにも、年下の子供たちにも、すべて「あたし」で通しています。

別にポリシーがあってそう言っているわけではなく、自然とそうなってしまうのです。「僕」「俺」なんて、まず使うことはありませんし、もう自然と口をついて出てくることもありません。

これは、もしかしてあたしが日本人から離れて、英仏語話者に変化していることの表れなのでしょうか? 自分のことながら興味深い現象です。果たして進化なのか退化なのか?






それにしても、今日は朝から頭痛がひどいです。

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