2010年2月 6日

声@朝日新聞

朝日新聞の読者投書欄「声」に、ある中学生がサリンジャー氏の訃報を機に『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでみた、という投書が載っておりました。

おお、中学生よ、ありがとう! 面白いと思ったなら、図書館で借りるだけではなく、本屋さんで買って、手元に置いて可愛がってやってください!

そんな風に思いましたが、まあ、買ってくれというのは冗談にしても、周りの人にも「面白かったよ、読んでみなよ」とぜひ勧めてもらいたいものです。まっ、「声」に投書したのが何よりのアピールですけど。

それにしても、この十数年、書店を回っていても、確かに『ライ麦』も『キャッチャー』もコンスタントに売れる定番商品ではありますが、かつてのような読むことが「若者の通過儀礼」という地位からは完全に陥落しておりました。

聞いてみると、やはりあの分量は、ケータイ小説に慣れた中高生には長い、重いらしいですし、社会に対する漠たる不満や反抗という、かつての若者に見られたような感情も、いまの若者には希薄になっているのが原因のようです。(このあたりは、柴田元幸さんが朝日新聞で触れていたような......)

かくいう、あたしは読んでません。

あたしの時代、まだまだ『ライ麦』の地位は高く、神通力も失われていなかった時代だと思うのですが、周囲(クラスメート)が読んでいるような感じもしなければ、教師から勧められた記憶もありません。だからなのか、正直な話、就職するまで、『ライ麦』なんて、薄ぼんやりと、そのタイトルだけどっかで聞いたことあるなあ、くらいのイメージしか持っていませんでした。

今さら読んでみようかとは、現時点では思っていませんが、もしサリンジャーの自宅から「ライ麦」の続編の原稿でも見つかって、それが発売されることになったら読んでみようと思うかもしれません。(そういえば、他の人が書いた続編って出版差し止めになりましたけど、サリンジャー亡き今となっては、改めて許可されるのでしょうか?)

あたしが、読んでいない理由を考えてみますと、昔から本が好きで、特に歴史書などが好きという確固たる好みが出来上がっていたため、そういう方面(文芸書?)に興味が沸かなかったのかもしれません。確かに子供の頃こそ童話など物語を読んでいましたが、その後はノンフィクションが多くなり、中高生の頃から「歴史読本」を読むようになり、小説はせいぜい司馬遼太郎、陳舜臣でした。高校時代はもっぱら論語や老子、韓非子など中国古典を読んでいました。これでは、文芸書、特に海外文芸などには目が向くわけ亡いですよね。

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