2009年11月11日

いい人に見られてる?

文春新書の『「いい人に見られたい」症候群-代償的自己を生きる』を読み終わりました。

代償的自己って、つまり世間や社会に対して演じている自分のことなわけで、そういう「自分」は本当の自分ではなくて、本当の自分ってのは別にあるわけなので、演じている「自分」は偽りだ、と思ってしまい、そこに葛藤が起きる......そんなことが書いてありました。

本書では、人は多かれ少なかれ、世間に対する顔というものを持っているのであり、社会生活を営む上でそれは当然のこと、偽りだなどと思う必要はないと諭してくれます。そして、そういう世間に対して演じている「自分」も、社会生活の中で作られてきた自分自身なのだから、自信を持つべきだとも言ってくれます。

著者の文章が、いま一つあたしには理解しづらかったので、上のような要約でよいのかどうか自信がないですが、つまりは代償的自己って、そのままでいいのでしょうか?

あたしなんか、社会人になって以降、特に営業部に移って以降、思いのほか「いい人」と見られている感があります。小さい頃より友だちもできず、他人と仲良くなることもできず、いつも人との間に見えない壁を感じていたあたしからすると、そんな「自分」は、まさしく偽りの自分と感じます。

ただ、折角「いい人」に見えているのだったら、それを押し通せばいいんじゃないか、無理して邪悪な本当のあたしを出す必要はないんじゃないか、という気もします。

たぶん社会人として生きていく上ではそれが正解なのでしょう。でも自分が「偽りの自分を生きている」という意識を捨てきれない以上、社会人としてはやっていけても、やはり人との間に友情とか信頼関係を築くのは不可能なんじゃないかと思います。だって、そういうものが成立する土台には相手に対する誠実さが求められるわけですが、偽りの自分に誠実さなどあるはずがないじゃないですか。

所詮は手頃な新書であって、カウンセリングを紙上体験する本ではないので、こういう疑問が解かれないまま読み終わってしまうのは仕方ないことでしょう。著者も、こういった本を何冊も読みまくっている人について触れて、それでは一時の安心しか得られないと書いていますが、一時でもいいから安心が欲しいと願う人もいるんだろうと思います。

自己肯定感が大事と言われても、本当は陰湿で邪な感情を持っているあたしを肯定してよいものか、そこが最大の疑問です。

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