2009年10月17日

穂村弘「世界音痴」注(一)

小学館文庫版の穂村弘『世界音痴』読了。作品解説にも書かれているように、穂村さんのエッセイは、やはり身に覚えのあることが多くて、共感することしきりです。ただ、あたしが読んでいて決定的に違うと感じるのは、穂村さんが「世間に対して自分の方が変わっている」と感じているのに対し、あたしの場合は「自分が普通なのであって、おかしいのは世間の方だ」と信じている点です。

とは言いつつも、読後の感想と自分はこう思う、自分の場合はこうだったということをつらつら綴ってみたいと思います。
一九九九年に自分が何歳になっているか、ということを子供の頃に考えた。そう云うと、「あ、俺も」「あたしも」という声が返ってくることが多いから、きっとみんな一度は考えてみるものなんだろう。(P.6)
言わずもがな、ノストラダムスの大予言のことを言ってます。あたしももちろん考えましたし、数えました。穂村さんよりは数歳年下ですけど。ただ、あたしはここで終わらなかったです。宇宙戦艦ヤマトが椅子館樽へと旅立つ(飛び立つ)はずの二一九九年には何歳になっているだろうか、ということまで考えていました。

ノストラダムスは、五島勉でしょうけど、最終的にはノストラダムスからファティマ第三の秘密にまで行き着き、一九九九年以降も人類は生き延びるということを知ってからは、21世紀まで生きるのは確実なものと思われたので、こうなったら22世紀の世界も覗いてから死にたいと思うようになりました。
思い出すのは五年前に冬の札幌に行ったときのこと。凍った路上で恋人が足を滑らせた。(P.25)
穂村さんはエッセイで「恋愛したい」とか「モテタイ」とかしょっちゅう書いていますが、その穂村さんのエッセイを読んでいると、そこかしこにこういう女性の影がちらつきます。はっきり書いてしまうと、穂村さんには常にガールフレンドや恋人がいる、という気がします。そういう臭いが行間から立ち上ってきます。女性と全く縁のないオトコの書いているものではありません。常にその傍らに女性の臭いや影がちらつくのです。まさか、恋人がいる、一緒に何々した、というエッセイの中で語られるエピソードがすべて妄想ではないでしょう。ここに、あたしは穂村弘の裏切りを感じるのです。

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