2009年10月15日

友だちって必要性

「友だちって、結局、必要性じゃない?」

そんなセリフが彼女の口から出たのは、あたしが大学生の頃ですから、もう20年も前です。

その少し前に中国の北京への短期語学研修に参加しました。民間業者主催の研修なので、いろいろな大学で中国語を学んでいる学生が日本各地から参加していて(なぜかその時の研修班に社会人はいませんでした)、彼女もその中の一人でした。

短期研修は四週間、北京の大学で中国語をみっちり学んだわけですが、ほぼ一月の共同生活で最初はぎこちなかったお互いの間柄も半ばからはかなり打ち解けてきました。帰国後、忘れましたが、何か用事があったので彼女と都内で逢ってお茶していたときに彼女が口にしたセリフがこれだったのです。

その彼女のことは、当時のあたしは、特に好きでも嫌いでもなかったわけですが、このセリフを聞いたとき、「だから、あたしにとってあなたは必要のない人なのよ」と言われたような気がしたものです。確かにあたしもこの言葉はその通りだと思いますし、あたし自身もそのようにそれまで生きてきたので、そんなセリフを聞いたからといってショックを受けていてはいけないのですが、ただ、その時はかなりの衝撃でした。

その同じセリフを、昨日、仲良しの書店員さんの口から聞いたのです。この書店員さんは女性です。

確かに客観的に考えれば、友人なんてものは、その時々の自分の必要性、ニーズによって知らず知らずのうちに取捨選択して付き合っているわけですから、この言葉は20年たって聞いても、やはりあたしには肯定できる言説なんですが、これまた同じように「だからあなたはあたしの人生において必要のない人なのよ」と言われているような気分がしたのも20年前と変わりませんでした。

もちろん、今のあたしは出版社の営業で、書店員さんとはよい関係を気付かなくてはならない必要性があることは確かですが、所詮出入りの営業さんと書店員、あくまでビジネスライクな繋がりでしかなく、そもそも友だちですらないのですけど......

で、翻って友だちってものを考えてみますと、あたしって、生まれてこの方友だちという存在がいないんですよね。いるのは、知り合い、顔見知り、クラスメートといった面々で、いま小学校以来のあたしの来し方を思い起こしてみても、友だちと呼べるような人はいません。言うまでもなく社会人になってからは、知り合う人はどの人も所詮はビジネス上のつながりでしかなく、友だちという間柄ではありません。

もちろん、ビジネスライクとはいえ、そこそこ仲良くさせてもらっている人はいます。でも、間柄がどんなに近づいても、ある一定の距離まで来るとそこからは距離を詰めることができません。(そんな距離までお近づきになれる方はほとんどいないのですが......)

あたしが一歩距離を詰めても、相手が一歩下がるのを感じます。決してそれ以上はお近づきにならないぞ、という目に見えないバリアでもあるかのようです。あるいは目に見えない風船のようなものがあたしと周囲の人との間にあって、あたしがどんなに近寄ろうとしても、その風船で押してしまい、近づくことができないという感覚です。

そういう感覚を自覚したのは小学生の頃です。それ以来、半径がどれくらいあるのかわかりませんが、あたしの(心の)周りは透明のガラスの円柱のようなもので囲われています。その円柱の中には誰も入ってこられない、入ってこようともしない、もちろんあたしがそのガラスを割って外の人たちへ自分から近づくこともできない、ガラスが割れない、そんな感覚を持ち続けてこの歳まで生きてきてしまいました。

読んだ感想を書く