平凡
朝日新聞の別刷beに平凡社の社名の由来が載っていますね。早速、「今日の平凡社」でも取り上げていますが、朝日のサイトではどこかにアップされているのでしょうか?
ま、記事の概要は上記「今日の平凡社」をご覧いただければわかると思いますが、やはり歴史のある会社というのは、それなりに凝った、意義深い社名のバックボーンを持っているのですね。
しかし、
いえ、別に平凡社に対する文句でも不平でもありません。中国古典ですから目くじら建てる方がおかしいのですが、羊頭も狗肉も日本では掲げてもいなければ売ってもいないよなあ、なんて思ってしまいました。
こうして文字になっているのを見ると、改めてそんな風に考えてしまいます。
ところで、あたしの勤務先の場合はといいますと......
ま、記事の概要は上記「今日の平凡社」をご覧いただければわかると思いますが、やはり歴史のある会社というのは、それなりに凝った、意義深い社名のバックボーンを持っているのですね。
しかし、
狗肉を掲げて羊頭を売るのが平凡社だというところで思いました。
いえ、別に平凡社に対する文句でも不平でもありません。中国古典ですから目くじら建てる方がおかしいのですが、羊頭も狗肉も日本では掲げてもいなければ売ってもいないよなあ、なんて思ってしまいました。
こうして文字になっているのを見ると、改めてそんな風に考えてしまいます。
ところで、あたしの勤務先の場合はといいますと......
では、あたしなりのご説明を......
基本的に、既に創業時のメンバーが存在しない白水社において社名由来の拠るべき資料となると「白水社70年のあゆみ」(非売品)になります。以下にその文面を引用しますが、実はこの「あゆみ」の文面も『Books』昭和28年2月号に掲載されたものを引用したものなので、更にここに引くと孫引きになります。あらかじめご了承下さい。ちなみにこの『Books』に掲載された社名の由来は白水社創業者・福岡易之助の同郷人・高橋毅一郎が書いた「白水社縁起」によるものです。
ここで少しこの出典について述べておきましょう。
まず『離騒』です。これは春秋戦国時代の楚の大夫・屈原の『楚辭』に含まれるものです。『楚辭』の中では巻頭を飾る最も有名な部分でしょう。ちなみに「りそう」と読みます。屈原は「くつげん」です。憂国の詩人として、また中国史上最初の詩人として有名な人です。『楚辭』は「そじ」と読みます。
『楚辭』は有名な文学作品ですから、ちょっとした辞典でも、どんなものかを調べることは可能です。また岩波文庫にも橋本循訳注の『楚辭』が収められています。中国古代の文学作品と言えば、この『楚辭』と『詩経』が両巨頭です。試みに大修館書店刊『中国学芸大事典』で『楚辭』を引きますと、
さて引用文では「その註に...」とあります。これは中国思想や中国文学をやってない方にはわかりにくいのではないかと思います。中国の古典は、基本的にそれに対する注釈を書くことによって読みつがれてきました。もちろんそれを読んだ人が、古い昔の文献なのでわからない箇所があり、自分なりの解釈を書き付けておいたという場合もあったでしょう。が、「述べて作らず」の伝統ある中国では、自分で自分の思想を表明するような書物を著すことは少なく(皆無ではありません!)、古典に注釈を付け、その注釈の中に自分の思想を表わすという手法が採られてきました。
例えばある古典作品に対して、自分以前に既に複数の人が 注釈を表わしていたとします。その場合、改めて自分が注釈を付ける時に自分の意見に最も合った説だけを引用し更に自分のコメント付けておくということもなされるのです。一番悪い(本人は悪いと思っていないでしょうが)パターンは、自分の意見に合っていないと、本文に誤りがあるのだと決めて本文の改竄さえ行なわれます。確かに昔は竹簡・木簡の世界ですから、バラバラになったりして錯簡もしばしば起こったことでしょうし、写本時代には誤記も少なくなかったと思います。
このようにして注釈は時代が下がるにつれて増えていくわけですが、これを具体的なイメージとして知ってもらうには、漢文の授業などであるいは見たことがあるかもしれませんが、割注のついたテキストを想像してください。本文が大きめの文字で書かれていて、当然漢文ですから漢字だけですが、その漢字を数文字ずつ意味の分かれ目で区切ってそこへ本文よりも小さい字で、本文1行に対して註は2行で書かれています。本文の1行を2行に割っているから、あるいは本文中に割り込んで挿入されているから、それは割注(わりちゅう)と呼ばれます。
話が横道にそれましたが、つまり中国古典においてはそれほど注釈というものの地位が高いのです。そして主立った古典作品には、それとペアになる注釈が決まっています。儒教経典の場合は、知識人の経典ですから王朝によって公認された注釈というのがあり、特に唐代には科挙の影響でそれ以前のさまざまな解釈(注釈)の統一が求められ、『五經正義』が編纂されたりもしました。幾つか代表的なものを挙げますと、司馬遷の『史記』には三家注と言って唐以前に成立した三種類の代表的な注釈があり、『史記』を出版する時には、宋明時代くらいからは、ほぼ必ずこの三家注も一緒になった形で出版されます。『論語』には何晏の『集解』(しっかい)という注釈がありますが、宋代になって朱熹の『集注』(しっちゅう)が作られ、以後は『集注』がお決まりのように付いています。 『老子』にも「王弼注」、『莊子』にも「郭象注」、『列子』にも「張湛注」というものがあります。
さて『楚辭』の注釈ですが、これもかなり色々あります。が、古いもの、そして後世にまで残るものというのは、誰もが踏まえる注釈のスタンダードとして後 世の注釈者も引用しますから、この場合、別に古いものにこだわる必要はありません。新しいものを見れば、古いものも出ていることが多いです。でもって比較的ポピュラーなものとして、日本人にもおなじみの朱熹が作った『楚辭集注』があります。この引用文の場合、朱熹の『楚辭集注』では「白水は崑崙の山に出づ」という注しか出ていません。もう一種類の注釈である「王逸注」では「之を飲めば則ち死なず」までありますが、どちらにも「神泉」というくだりまでは書いてありません。調べてみたところ、ここで引かれている『離騒』は『楚辭』の単行本によったのではなさそうです。
これもまた日本人にもよく知られている中国の文学作品集に『文選』(もんぜん)があります。清少納言が「文は文選、文集」と言ったことでも有名です。こ の『文選』は梁の時代に出来たものですが、それ以前の代表的な作品を集めたもの、言うなれば中国古典名作集です。そこにこの『離騒』が収録されています。 この『文選』にも先と同様、幾つかの注釈がありますが、有名な五人の注釈を一つに集めた「五臣注」というものがあり、それには「神泉なり」の一句が載っているらしいのです。「らしい」とここで書いたのは、私が『五臣注文選』を自分の目で確認していないからです。先に挙げた岩波文庫版『楚辭』ではこの注が五臣注にあると書いてあります。
話は変わりますが、汲古書院という出版社から「和刻本文選」という本が出ています。『文選』の注釈書と言えば唐の時代の李善が作った李善注が代表格で、この李善注と先の五臣注を合わせて「六臣注文選」と呼ばれたりします。汲古書院から出ている『文選』はこの六臣注です。これを見ましたが、「神泉なり」の一句は見当たりませんでした。う~ん、ちょっと謎です。もう少し調べないといけませんね。
では次に注で引かれている『淮南子』に話を移しましょう。これは「えなんじ」と呼びます。たぶん多くの方は「わいなんし」と読んでしまうのではないでしょうか。「し」を「じ」と読むのは『莊子』を「そうじ」と読むように中国古典ではままあります。『淮南子』の「淮」は中国大陸の北と南を分ける淮河のことです。この川の南にある地だから淮南なんです。そこに王として封じられた前漢初期の皇族、淮南王・劉安が編纂したのがこの『淮南子』です。『淮南鴻烈解』などと呼ばれることもあります。この本は諸子百家のうち「雑家」と呼ばれる部類に属するもので、『呂氏春秋』と並び雑家の代表的著作です。
さて『淮南子』に曰く、とあるのですから『淮南子』の本文からこの文面を探してみます。が、ありません。現在残っている『淮南子』のテキストにはここに引かれている文章は載っていません。そこで根気よく『淮南子』をもう少し調べてみると、次のような文面が見つかりました。
このように中国古典はさまざまな例文をたくさんの文献から集めてきて並べて注釈にするという伝統がありますが、引用文が間違っていたり、今回のように引用文献のテキストが長い間に変わってしまい、該当部分を探し出せないということもしばしばです。もちろんこれを利用して古い形、本来の形を復元するということも可能なわけですが、そううまくいくとは限りません。白水社の社名の由来が、実に面倒な中国学の学問方法を垣間見ることになってしまいました。
ところで私は、白水社の社名の「由来」にはなりませんが、もう少しわかりやすく、しかも白水社にふさわしい「故実」を見つけました。
白水社は語学の出版社です。出発点がどうあれ、また語学以外にもさまざまなジャンルの本を出しているとはいえ、その大きな柱に語学があるのは紛れもない事実です。伝統的にフランス語が中心で、社内にはまだまだフランス語を特別視するような雰囲気がありますが、今後はフランス語も「one of them」となりましょう。
語学と言えば、やはり我々は日本人である以上、日本語との関係に興味が向くと思いますが、この日本語を成り立たせている要素の一つに漢字があります。ちょっとこのあたり、強引な理屈でしょうか。
漢字は中国生まれの文化です。中国では、学問的には当然のことながら否定されていますが、伝説では蒼頡(そうけつ)という人が漢字を作ったことになって います。この蒼頡は伝説上の人物なのですが、出身地があり、そこには墓と廟も建てられているのです。その場所というのが、長安(現在の陝西省西安)の北北東、白水県なのです。白水県はちゃんと中国の地図にも載っている実在の地名です。私は漢字を作った蒼頡の生まれ故郷が白水県であるということが、現在の白水社には最もふさわしい「いわれ」ような気がしますが、如何でしょう。
蒼頡と白水県については阿辻哲次『漢字の社会史』(PHP選書、1999年)に手際よく紹介されていますので、どうぞご一読ください。
基本的に、既に創業時のメンバーが存在しない白水社において社名由来の拠るべき資料となると「白水社70年のあゆみ」(非売品)になります。以下にその文面を引用しますが、実はこの「あゆみ」の文面も『Books』昭和28年2月号に掲載されたものを引用したものなので、更にここに引くと孫引きになります。あらかじめご了承下さい。ちなみにこの『Books』に掲載された社名の由来は白水社創業者・福岡易之助の同郷人・高橋毅一郎が書いた「白水社縁起」によるものです。
(前略)...。社名はというと、三友社とかなんとか色々案が出たが、福岡君が白水社はどうと云うと、こりゃいいとすぐに其れに決まってしまった。『朝 (あした)に吾れまさに白水を済(わた)り、ろう風に登りて馬をつながんとす』と離騒に出ており、その註に『淮南子に言ふ、白水は崑崙の山に出で、之を飲 めば死せずと。神泉なり』とあるから、出版社の名としてこれほどふさわしいものはない。...(後略)以上が由来記です。一読しただけではなぜふさわしいのか私には全くわかりません。確かに悪い意味ではないようですが、出版活動との関連ということになるとよくわかりません。まあ、明治人の漢籍の素養は現代人には及びもつかないものですから、なにか心の琴線に触れるものがあったのでしょう。
ここで少しこの出典について述べておきましょう。
まず『離騒』です。これは春秋戦国時代の楚の大夫・屈原の『楚辭』に含まれるものです。『楚辭』の中では巻頭を飾る最も有名な部分でしょう。ちなみに「りそう」と読みます。屈原は「くつげん」です。憂国の詩人として、また中国史上最初の詩人として有名な人です。『楚辭』は「そじ」と読みます。
『楚辭』は有名な文学作品ですから、ちょっとした辞典でも、どんなものかを調べることは可能です。また岩波文庫にも橋本循訳注の『楚辭』が収められています。中国古代の文学作品と言えば、この『楚辭』と『詩経』が両巨頭です。試みに大修館書店刊『中国学芸大事典』で『楚辭』を引きますと、
詩経ののち約三百年、紀元前三百年ごろ、南方の湖南・湖北の地方を中心とした楚の国におこった文学。楚辭とは楚の地方のうたということであるが、一般にはその創始者である屈原及びその継承者である宋玉・景差の作品を指して呼んでいる。詩経の詩の現実的・写実的であるのに対し、幻想的・神秘的・宗教的・浪漫的であるのが特色であり、また詩経の四言を基調として字句の整正しているのに対し、三言を基調とし、兮字を用いて整正していないのが特色である。楚辭の称は前漢の武帝のときから存しているが、前漢の劉向が屈原・宋玉・景差などの作品二十五篇を集めて楚辭と題してから広く行われている。(後略)とあり、以下には主なテキストと注釈書の紹介が並んでいます。同様に『離騒』については屈原が「忠を尽くしたが、讒言に遭ってうとんぜられたので憂愁幽思してこれを作った」とあります。この「離騒」という言葉の意味ですが、通説では「離」を遭、「騒」を憂の意味として、「うれいにあう」とするのが一般 的です。
さて引用文では「その註に...」とあります。これは中国思想や中国文学をやってない方にはわかりにくいのではないかと思います。中国の古典は、基本的にそれに対する注釈を書くことによって読みつがれてきました。もちろんそれを読んだ人が、古い昔の文献なのでわからない箇所があり、自分なりの解釈を書き付けておいたという場合もあったでしょう。が、「述べて作らず」の伝統ある中国では、自分で自分の思想を表明するような書物を著すことは少なく(皆無ではありません!)、古典に注釈を付け、その注釈の中に自分の思想を表わすという手法が採られてきました。
例えばある古典作品に対して、自分以前に既に複数の人が 注釈を表わしていたとします。その場合、改めて自分が注釈を付ける時に自分の意見に最も合った説だけを引用し更に自分のコメント付けておくということもなされるのです。一番悪い(本人は悪いと思っていないでしょうが)パターンは、自分の意見に合っていないと、本文に誤りがあるのだと決めて本文の改竄さえ行なわれます。確かに昔は竹簡・木簡の世界ですから、バラバラになったりして錯簡もしばしば起こったことでしょうし、写本時代には誤記も少なくなかったと思います。
このようにして注釈は時代が下がるにつれて増えていくわけですが、これを具体的なイメージとして知ってもらうには、漢文の授業などであるいは見たことがあるかもしれませんが、割注のついたテキストを想像してください。本文が大きめの文字で書かれていて、当然漢文ですから漢字だけですが、その漢字を数文字ずつ意味の分かれ目で区切ってそこへ本文よりも小さい字で、本文1行に対して註は2行で書かれています。本文の1行を2行に割っているから、あるいは本文中に割り込んで挿入されているから、それは割注(わりちゅう)と呼ばれます。
話が横道にそれましたが、つまり中国古典においてはそれほど注釈というものの地位が高いのです。そして主立った古典作品には、それとペアになる注釈が決まっています。儒教経典の場合は、知識人の経典ですから王朝によって公認された注釈というのがあり、特に唐代には科挙の影響でそれ以前のさまざまな解釈(注釈)の統一が求められ、『五經正義』が編纂されたりもしました。幾つか代表的なものを挙げますと、司馬遷の『史記』には三家注と言って唐以前に成立した三種類の代表的な注釈があり、『史記』を出版する時には、宋明時代くらいからは、ほぼ必ずこの三家注も一緒になった形で出版されます。『論語』には何晏の『集解』(しっかい)という注釈がありますが、宋代になって朱熹の『集注』(しっちゅう)が作られ、以後は『集注』がお決まりのように付いています。 『老子』にも「王弼注」、『莊子』にも「郭象注」、『列子』にも「張湛注」というものがあります。
さて『楚辭』の注釈ですが、これもかなり色々あります。が、古いもの、そして後世にまで残るものというのは、誰もが踏まえる注釈のスタンダードとして後 世の注釈者も引用しますから、この場合、別に古いものにこだわる必要はありません。新しいものを見れば、古いものも出ていることが多いです。でもって比較的ポピュラーなものとして、日本人にもおなじみの朱熹が作った『楚辭集注』があります。この引用文の場合、朱熹の『楚辭集注』では「白水は崑崙の山に出づ」という注しか出ていません。もう一種類の注釈である「王逸注」では「之を飲めば則ち死なず」までありますが、どちらにも「神泉」というくだりまでは書いてありません。調べてみたところ、ここで引かれている『離騒』は『楚辭』の単行本によったのではなさそうです。
これもまた日本人にもよく知られている中国の文学作品集に『文選』(もんぜん)があります。清少納言が「文は文選、文集」と言ったことでも有名です。こ の『文選』は梁の時代に出来たものですが、それ以前の代表的な作品を集めたもの、言うなれば中国古典名作集です。そこにこの『離騒』が収録されています。 この『文選』にも先と同様、幾つかの注釈がありますが、有名な五人の注釈を一つに集めた「五臣注」というものがあり、それには「神泉なり」の一句が載っているらしいのです。「らしい」とここで書いたのは、私が『五臣注文選』を自分の目で確認していないからです。先に挙げた岩波文庫版『楚辭』ではこの注が五臣注にあると書いてあります。
話は変わりますが、汲古書院という出版社から「和刻本文選」という本が出ています。『文選』の注釈書と言えば唐の時代の李善が作った李善注が代表格で、この李善注と先の五臣注を合わせて「六臣注文選」と呼ばれたりします。汲古書院から出ている『文選』はこの六臣注です。これを見ましたが、「神泉なり」の一句は見当たりませんでした。う~ん、ちょっと謎です。もう少し調べないといけませんね。
では次に注で引かれている『淮南子』に話を移しましょう。これは「えなんじ」と呼びます。たぶん多くの方は「わいなんし」と読んでしまうのではないでしょうか。「し」を「じ」と読むのは『莊子』を「そうじ」と読むように中国古典ではままあります。『淮南子』の「淮」は中国大陸の北と南を分ける淮河のことです。この川の南にある地だから淮南なんです。そこに王として封じられた前漢初期の皇族、淮南王・劉安が編纂したのがこの『淮南子』です。『淮南鴻烈解』などと呼ばれることもあります。この本は諸子百家のうち「雑家」と呼ばれる部類に属するもので、『呂氏春秋』と並び雑家の代表的著作です。
さて『淮南子』に曰く、とあるのですから『淮南子』の本文からこの文面を探してみます。が、ありません。現在残っている『淮南子』のテキストにはここに引かれている文章は載っていません。そこで根気よく『淮南子』をもう少し調べてみると、次のような文面が見つかりました。
是れを丹水と謂ふ、之を飲めば死なず『淮南子』の「墜形訓」という篇に出てくる言葉です。ここの部分に次のような注があります。「丹水はもと白水に作る」と。つまりここの「丹水」は本来は「白水」だったというのです。注釈者はその例証として幾つかの文献を挙げていますが、その中にこの「離騒」があります。どうやら『楚辭』の注で引かれている『淮南子』は『淮南子』の古い形を伝えているようです。
このように中国古典はさまざまな例文をたくさんの文献から集めてきて並べて注釈にするという伝統がありますが、引用文が間違っていたり、今回のように引用文献のテキストが長い間に変わってしまい、該当部分を探し出せないということもしばしばです。もちろんこれを利用して古い形、本来の形を復元するということも可能なわけですが、そううまくいくとは限りません。白水社の社名の由来が、実に面倒な中国学の学問方法を垣間見ることになってしまいました。
ところで私は、白水社の社名の「由来」にはなりませんが、もう少しわかりやすく、しかも白水社にふさわしい「故実」を見つけました。
白水社は語学の出版社です。出発点がどうあれ、また語学以外にもさまざまなジャンルの本を出しているとはいえ、その大きな柱に語学があるのは紛れもない事実です。伝統的にフランス語が中心で、社内にはまだまだフランス語を特別視するような雰囲気がありますが、今後はフランス語も「one of them」となりましょう。
語学と言えば、やはり我々は日本人である以上、日本語との関係に興味が向くと思いますが、この日本語を成り立たせている要素の一つに漢字があります。ちょっとこのあたり、強引な理屈でしょうか。
漢字は中国生まれの文化です。中国では、学問的には当然のことながら否定されていますが、伝説では蒼頡(そうけつ)という人が漢字を作ったことになって います。この蒼頡は伝説上の人物なのですが、出身地があり、そこには墓と廟も建てられているのです。その場所というのが、長安(現在の陝西省西安)の北北東、白水県なのです。白水県はちゃんと中国の地図にも載っている実在の地名です。私は漢字を作った蒼頡の生まれ故郷が白水県であるということが、現在の白水社には最もふさわしい「いわれ」ような気がしますが、如何でしょう。
蒼頡と白水県については阿辻哲次『漢字の社会史』(PHP選書、1999年)に手際よく紹介されていますので、どうぞご一読ください。
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