上のトップ画像は北京五輪2年前ほどの北京・東単交差点だったと思います。バック画像は西安の兵馬俑博物館に展示されていた武俑です。

2005年4月30日

常用漢字の中国語読み

「中国語学習室」の中のコーナーに「称謂表」というのがあって、これは中国語で親族呼称を調べるためのコーナーです。充実しているとは決して言えませんが、お陰様で多くの方に覗いてもらっています。

このコーナーの質問箱って、称謂表で調べられなかった(検索しきれなかった)親族呼称について質問してもらうコーナーとして設けているのですが、自分の名前を中国語でどう言うのか、といった質問が多数寄せられています。

こういった質問は、質問箱の趣旨とは外れるので回答していませんが、これだけ聞いてくる人がいるとなると、自分の名前の中国語読みを簡単に調べたい と思っている人が多いんだろうなあと思われます。もちろん、中国語を勉強している人ならば中国語辞典を引けばよいのでしょうが、質問箱に書き込んでくる人 はそこまで中国語を勉強していないのでしょう。たぶん、周囲に中国人がいて、ちょっとはしゃべれるようになりたい、でも中国語学校へ行く余裕はないし、そ れでも自分の名前くらいは発音できたら...というところだと思います。

そこで、今日は一日、そのためのCGI設置をやっておりました。「友」を検索すると「庸」がヒットしたりする不具合があるのですが、とりあえずは設置できました。上記不正動作などの原因究明・修正は明日にします。明日は、これの携帯電話版も作らないと......。

ああ、こんなことをしながら、GWが終わっていくのね(懺悔)。

2005年4月29日

キリスト教は邪教です!

キリスト教は邪教です!』読了。

ニーチェの『アンチクリスト』を現代語訳したものですが、いわゆる学術的な日本語訳ではなく、タイトルからもわかるとおり、かなり砕いたものになっ ています。本当にニーチェってこんなこと言ってんの? という疑問を時折感じますが、杜氏の一般的なドイツ人には案外このくらいの感覚で受け入れられてい たのかもしれません。(あ、ニーチェって当時は異端視されていたんでしたっけ?)

寛容性に乏しいキリスト教には、前々から違和感を感じていたので、読んでいて共感できるところも多々ありましたが、現代語訳が「超訳」のためなのか、今ひとつ論理展開に飛躍を感じるというか、もう少しきちんと説明してよ、と思うところもありました。

こうなると、きっちりとした訳の『アンチクリスト』を読んでみないとなりませんね。すぐには、そんな時間とれないですが、いつか読んでみようと思います。ニーチェ入門書も、新書でいろいろ出てますから、そういったものも少し読んでみますかね。

それにしても、ニーチェのキリスト教理解には、もちろん各界から反対も起きたことでしょうけど、あたしなんかにはニーチェが賞賛している仏教なんで すが、ニーチェの仏教理解ってものがどんなものだったのか、そちらの方に興味があります。あるいは本書にはちょこっとだけ孔子や老子が登場するのですが、 ニーチェの中国思想理解もぜひ拝聴したいものです。

2005年4月28日

赤本と著作権

今朝の朝日新聞に、大学受験の過去問題集「赤本」に自分の作品が使われている作家が、著作権を言い立てたというような記事が載っていました。

つまり、自分の作品を某大学の入試問題として使用することは許可したけれど、それはあくまでその大学に対してであって、赤本などの過去問題集への掲載まで認めたわけではないということらしいです。

言い分はごもっともで、過去問題集を出している出版社も対応しないとならないでしょうね。今後も成り行きとしては、(1)きちんと許可を取り、それ 相応の使用料を作家に払い、過去問題集を出す。(2)使用料を払わない代わりに、該当する作家の作品が載っている過去問題だけ問題集から外す。(3)作家 側の言い分を無視する、の三つがあると思います。

まあ、(3)の方法をとることはないと思いますが、どのように決着することやら。多くは国語の問題集になると思いますけど、全部載ってない過去問題集を、受験生がどう思うか......。

うちもドイツ語・フランス語の検定試験問題集を出していますが、これらは検定協会などに使用料を払っているので、今回のような問題は発生しないと思いますが、他山の石とすべきでしょう。大学の場合は個々の大学とこういった取り決めをしないとならないのでしょうね。

2005年4月27日

チャイニーズ・シンデレラ

チャイニーズ・シンデレラ』読了。

著者の幼少の頃から中国を離れイギリスへ留学するまでの、いわゆる学生時代を書きつづったものです。継母に疎んじられ、実の父にも見捨てられた主人 公(=著者)が、一生懸命勉強しついには海外留学へと旅立つ物語は、確かにシンデレラ・ストーリーと言えると思いますが、逆境に生きたとか悲惨な生い立ち であった、というのとはちょっと違うと思います。

確かに著者の小中学生時代は暗かったと思いますが、それでも著者を学校に通わせてくれていたわけですし、父はそれなりの金持ちでもあったようですか ら、この時代もっともっと悲惨な人生を送った人は、それこそ掃いて捨てるほどいたでしょう。そういった人の自伝や回想記も出版されています。

そういう観点から言ってしまえば、本書はあたしにとってはインパクトの弱い書であると言えます。でも、いたずらに悲惨さを強調し、そこに時代背景を 投影して、個人の努力ではいかんともしがたい大きな力や苦しみを描いたところで、救いのない話では気が滅入ってしまいます。それよりも、本書のように、決 してあきらめずに勉強に励み、父や継母、それに兄弟からは愛されていなくとも、優しいおじいさんや同居しているおばさんは確かに自分を愛してくれている、 そういう人が自分の周りにいてくれる、自分は一人(独り)ではないんだと、そっと教えてくれる本書のようなストーリーは読後感も爽やかです。

本書は大人よりはもう少し若い世代向けのようですが、そういった面でも本書のような悲惨さ具合がちょうどよいのかもしれません。

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