上のトップ画像は北京五輪2年前ほどの北京・東単交差点だったと思います。バック画像は西安の兵馬俑博物館に展示されていた武俑です。

2005年2月 7日

搬家



題名は、中国語で「引っ越し」という意味であります。既に知っている人もいると思いますが、私は先日引っ越しをしたんです。それがどうした、引越祝いでも寄こせっていうのか、と思われる人もいるかもしれませんが、別にそんな気はありません。そりゃ、確かにお祝いをもらえたら嬉しいですけど。

そんなことより、私にとっては物心ついてはじめての引っ越しだったのです。私が今まで住んでいた杉並区高井戸は「杉並」というだけで、二十三区の中でもそれなりのネームバリューを持っていたところですし、家は駅から歩いて十分以内、駅から新宿まで、否、家から新宿まで三十分以内という恵まれた交通環境だったのです。

更にそこに私は十六年間も生活し、ほとんど自分の体のようなものになっていたのです。それだから、今回の引っ越しは、それ自体はどうというものではないんですが、その後の生活に慣れるのにかなりの体力と気力を私に要求することになるでしょう。

其ノ壱

引っ越しというのは、つまり通学(私の場合ほとんどはアルバイトのための通勤)手段が変更になるということであり、それは「あの女性」に逢えなくなるということであります。冷静に考えるなら、「あの女性」は私の理想の女性のタイプとは別のタイプだと思います。あえて言うなら、私とはウマの合わないタイプだとも思えます。ありきたりな、月並みな表現で申し訳ありませんが、やはり自分にないものを求めているということなのでしょうか。

私に無いものといえば、「お金」「容姿」というのは除くとして、「思いやり」「優しさ」ではないでしょうか。でも「あの女性」には「思いやり」や「優しさ」があるようには見えません。どっちかと言うと「いかにも女子大生」って感じだけど、どこか冷めていて、そんでもって「男なんて何さ」的な気高さを少しだけ漂わせている、そんな感じです。

この女性には、とびきりのハンサムで、毎晩六本木あたりに繰り出している、ポルシェの兄ちゃんなんかが似合うのかもしれません。でも「あの女性」は、それほど派手な性格でもなさそうです。どちらかといえば、他人に対してあまり打ち解けない感じがします。本当はネクラなのでしょうか。けれど時々「ぴあ」なんかを私の隣で読んでいます。

はっきり言って年齢職業一切不詳です。歳は私と同じかプラスマイナス二歳。一見、学生のようで働いているようなのです。私より年上なら学生ということはまずないでしょう。

肩を並べて電車に揺られる十五分程が、なんとも言えぬ微妙な緊張感を生み出していて、それがまたたまらなく気持ちよく感じるのです。私が「あの女性」と親しく話をしながら通学するのはいつの日でしょう。

引っ越したので、一緒になる区間が短くなってしまい、ますます逢う機会が減ってしまったけど、話すこともないのだけれど、隣に立っていてくれるだけで満足感を得られる幸福な私であります。

其ノ貳

ホテルの一室の彼女の部屋で、今日一日のことを話しながら、私はベッドの上で銭の勘定をしていた。一日歩き回ってかなり疲れていてもいいはずなのに、それほどの疲労を感じてはいなかった。今日買ったシルクのブラウスの胸元を大きく開けて、もう少しで......。彼女が「どう?」と聞く。「似合うんじゃない」と答える。彼女は嬉しそうな顔をして他の品物をいじくりだした。

二人で一日散策して買い物をして食事してというのは、かなり気まずいんじゃないかと朝のうちは思っていたけど、終わってみると二人ともけっこう大人だったんだなあと思わせてくれる一日であった。明日は家に帰るんだと思うと、妙にホッとした気になるって私が夕方くらいに彼女に話したら、「そう?」なんて言っていた彼女が、「私もなんか気持ちが充実してる感じ」なんて今になって言うから、この女狐めなどと思ったりしていた。

私の持っていた財布は買い物をして、その日の計算をしてみるとお金が増えている(つまり計算より余分にお金が残っている)という魔法の財布で、その時もいくらか増えているなんて言いながら、計算し終わってベッドに横になったら、彼女が私の隣に横になってきた。それも私の右側に。

私は、例えば赤ちゃんを抱っこする時には右手を使う(利き腕だから?)ように、大事なものは右手を使って持つし、右側にいてくれた方が、同伴の幼児の身の安全を守りやすいので、右側はそういう大事なものや守らなければならない人のためにとっておきたかったのである。彼女も、教えてあげたから、それを知っていて、わざと私の右側を歩いたり右側に立ったりする。その日も日中歩いていた時、「男性は車道側を歩くものじゃない?」と言われて、「右側にいられるのが嫌なの」と答えたりして、この私に思いやりなど期待するなと言いたかった。

「あーあ、疲れた」「そうね」

なんてぶっきらぼうに答えられると、その次の言葉に困ってしまう。この人、いったい何考えてんだろう。一人用だからそれほど大きくないベッドに割り込んでくるなって言いたかったけど、ここは彼女の部屋だったから、そうも言えなくて。仕方ないやと思いつつ、彼女の頭をこづいてやると、妙に幼い顔つきで人のことを見る。何か言い足そうな、澄ましているのか笑っているのかよくわからない表情が、明るくない部屋の中で浮き上がって印象的だった。

其ノ参

「幸」だけじゃバランスがよくないから「子」をつけたという幸子ちゃんも、今年大学卒業のはずだから、内定決まったでしょうか。今までも、家が割と近かったので、電車の中で乗り合わせる可能性があったけれど、そんなことは高校卒業後一度だって無く、今度はそんな儚い可能性すら奪ってしまった今回の引っ越しは、私にとってかなり辛いことでした。

幸子ちゃんは、幸子ちゃんこそは、私の理想のタイプに一番近い女の子です。クラスの中ではあまり目立たず、男子に注目されることもほとんど無かったけど、めざとい私はそういう控えめな風がとっても気に入ってます。あくまで現在進行形です。

私が、女性を好きにならないという理由はこのためです。ここで別な女性を好きになったら、彼女に対する好意を否定してしまい、それはつまり、私の恋愛感情それ自体の存在を否定してしまうことになるんじゃないかと思うからです。

今、幸子ちゃんはどんな女性になっているのでしょう。

この文章は、大学時代に所属していたサークルの会誌に発表した(平成元(1989)年10月発行)ものです。

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